北九州市平和のまちミュージアム
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    入館は 17:30 まで

    学芸員日記

    小倉の懐かしい百貨店「玉屋」

    2024/02/09

    No.82 令和6(2024)年2月9日

     かつて小倉に、「玉屋」という百貨店があったことを覚えていらっしゃる方も多いでしょう。ミュージアムでも、玉屋の前身である「菊屋百貨店」開業記念絵葉書の展示を前に懐かしむ方を、何度か見かけたことがあります。

     菊屋百貨店は、佐賀の荒物(家庭用の雑貨類)商である田中丸善吉が、佐世保、福岡、佐賀に続く4店舗目の百貨店として、昭和12(1937)年10月小倉室町に開店しました。玉屋と改称したのは、昭和16(1941)年2月のことです。
     開店にあたっては、市政をも巻き込んだ紆余曲折がありました。建設計画が始動した昭和10(1935)年当時の小倉はすでに、大正9(1920)年3月に開店した「かねやす百貨店」があり、加えて「井筒屋」(昭和11(1936)年10月開店)の建設も決定していたため、新たな百貨店の建設に中小小売商らが反対運動を起こしたのです。また、参道の変更が必要となることから、八坂神社の宮総代たちも反対に回りました。
     さらに、百貨店誘致賛成派の主導で、玉屋と関係の深い呉服商・白崎忠男への市有地払下げが小倉市議会で可決されたことにより、反対運動はさらに激化し、反対派議員が市長に辞職を迫る事態にまで発展します。事態は紛糾を極めましたが、福岡県知事の仲裁により、八坂神社の参道を維持することや小倉市等が小売業者を援助することで、さしあたりの解決が図られました。
     太平洋戦争がはじまると、小倉を代表する百貨店として賑わった玉屋も、その影響を受けます。小倉中学校(現 小倉高校)2年生のとき、学徒動員で工場に働きに出ていたという方は、「玉屋の3、4階に機械が置かれ、東芝特殊金属(東芝特金)の工場として使用されていた」と証言しています。
     終戦後、玉屋は進駐軍に接収され、進駐軍用のPX(進駐軍隊内の売店)、放送局、クラブとして利用されました。当時の玉屋社長は接収を「全く寝耳に水だった。」と、接収指令書に署名した当時の末松茂治小倉市長に怒鳴り込みにいき、さらに、福岡県庁へ抗議にいき、ついには占領軍の司令部にまで乗り込んだそうです。その甲斐あってか、当初は建物の一部の接収を免れましたが、結局、約半年後には全館接収されてしまいました。米軍による接収が解除され、室町での再開店にこぎつけたのは昭和27(1952)年10月のことでした。
     その後、長年地域のデパートとして市民に愛されましたが、平成に入ると「小倉そごう」開業(現在は閉店)による業績の悪化、リバーウォーク北九州開発事業による対象地域への指定など、百貨店経営が困難な状況に陥ります。店内の改装を行い、ホテルのようなサービスを念頭に脱百貨店を目指す動きもありましたが、状況は好転せず、平成14(2002)年12月25日、65年続いた百貨店は惜しまれつつ閉店しました。
     実は、玉屋の名残が北九州市庁舎にあります。北九州市庁舎の地下にある食堂は、玉屋のグループ会社である玉屋食品が営業を行っています。昨年、小倉競馬場にあったレストランが閉店し、玉屋グループの食堂としては唯一のものとなりました。しかし、この玉屋食堂も今月22日をもって閉店するそうです。
     現在、平和のまちミュージアムでは、「菊屋百貨店」開業記念絵葉書をもとにしたオリジナルグッズを販売しています。グッズのみの購入も可能ですので、ぜひお立ち寄りください!

    (学芸員M)

    【参考文献】
    遠城明雄「一九三〇年代の都市中小小売商:福岡県の場合」『史淵』140輯、pp.237-274、2003年
    北九州市産業史・公害対策史・土木編集委員会産業史部会編『北九州市産業史』、北九州市、1998年
    北九州市総務局総務課編、『後世に語り継ぐ北九州市民の戦争体験』、北九州市、2016年
    玉屋食品株式会社HP(http://tamayafoods.co.jp/about/、2024年2月8日閲覧)
    毎日新聞西部本社編『激動二十年 福岡県の戦後史』、葦書房、1994年

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