北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    日田に行ってきました ~小倉陸軍造兵廠の疎開先を訪ねて~

    2023/10/20

    No.75 令和5(2023)年10月20日

     先日、プライベートで、開業して間もない日田彦山線BRT(ひこぼしライン)を利用して、大分県日田市まで行ってきました(なおBRTの専用道区間内には、終戦直後に火薬の大爆発事故が発生した二又トンネル跡があります)。目的は、日田市内に残された小倉陸軍造兵廠の痕跡を探すためです。
     以前、学芸員日記44「小倉陸軍造兵廠の疎開」でも紹介しましたが、戦争末期、空襲から逃れるため、小倉陸軍造兵廠は工場疎開を行いました。昭和20(1945)年3月には、小倉陸軍造兵廠本部と第二製造所、および現在の春日市にあった春日製造所が、大分県日田への疎開を開始します。疎開先に海岸線から遠い日田が選ばれたのは、本土決戦に備える意味もあったようです。造兵廠の疎開により、日田市および周辺地域の人口は、一時的に数万人増加したといわれています。

     造兵廠の本部事務所は、日田市内の田島地区におかれました。付近にある大原八幡宮境内には、造兵廠の守護神的存在であり、疎開とともに日田へ遷座せんざした「錦春きんしゅん稲荷神社」が現存しています(戦後に再遷座されたもの、↑上)。そのかたわらには、戦後に造兵廠OB・OGによって建立された「小倉陸軍造兵廠本部終焉之地」碑が現存します(↑下)。

     造兵廠の工場は、日田市内の12か所に分散して建設されました。建設された工場の中には、山肌を掘りぬいたトンネル工場も含まれます。今回の日田訪問では工場が存在した一部の地域のみを回りましたが、それでも、バラック工場の建物や(↑上、移築)、いくつものトンネル工場の痕跡(↑下)を見つけることができました。
     今後、日田市内の別の地域や、宇佐市、杵築市など別の造兵廠の疎開先へも、足をのばしてみたいと思っています。

    (学芸員O)

    【参考文献】
    日田市編『日田市史』(日田市、1990年)
    「「軍都」日田、痕跡なお 小倉陸軍造兵廠が疎開 工場、集会所に利用」(『西日本新聞』大分・日田玖珠版、2021年8月13日)

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