旧制中等学校の校歌 ~門司・小倉の場合~
No. 103 令和6(2024)年12月6日
学校行事のなかで繰り返し歌われる「校歌」。学校を卒業して何年経っても、校歌だけは口ずさむことができる、という方も多いのではないでしょうか。実は、この校歌にも、時代の移り変わりが反映されています。現在開催中の企画展「学徒らしくあれ ~旧制中等学校の戦争史 門司・小倉編~」に合わせて、門司・小倉の旧制中等学校の校歌をご紹介しましょう。
全国的に、校歌は明治時代なかばから作られるようになっていきましたが、当初はメロディが無かったり、あるいは既存のメロディを流用(替え歌)したりしたものが多く、現在の校歌のような各学校独特のメロディを持つ校歌が広まっていったのは、大正時代後半ぐらいからでした。このような全国的な傾向と歩調を合わせて、門司や小倉の旧制中等学校でも校歌が制定されはじめます。
現在と同様、校歌には学校が所在する地域の象徴的な自然地名が歌いこまれました。門司の学校では、関門海峡を表す「硯の海」や、風師山や戸ノ上山、小倉の学校では、足立山や紫川などが、校歌に登場しています。また、旧制中等学校はすべて男子校または女子校だったので、「男の子の意気」(門司中学校)、「女の道」(門司高等女学校)などの歌詞がありました。
校歌が「国民づくり」のツールであった唱歌教育の延長線上にあった(渡辺2024)ことを反映して、日本という国や天皇に関する歌詞、あるいは時代相を反映した歌詞も見られます。「殉国※の意気」(小倉中学校)、「かゞよふ御代の光り」(門司高等女学校)、「潮を越ゑて大東亜」(小倉園芸学校)、「弥栄昇る大御代御代に」(小倉女子実業学校)などが、その一例です。
終戦後、教育の民主化が進められ、さらに学校の男女共学化が進められると同時に、それまでの校歌は廃止されたり、一部の歌詞が変更されたりしました。門司高校では、「学び男」が「学び子」に、「文武」が「真理」に、「男の子の意気」が「若き命」に変わり、小倉高校では、「殉国」が「愛国」に、「文武」が「文化」に(のちに文武に戻る)変わって、戦後も同じメロディで歌われています(門司高校は閉校まで)。
皆さんも、自分が卒業した校歌の歴史や意味について、考えてみてはいかがでしょうか。
※国のために命を捨てること。
(学芸員O)
【参考文献】
各高等学校の記念誌
渡辺裕『校歌斉唱! 日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮社、2024)