北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    軍都の路面電車 ~小倉電気軌道→西鉄北方線~

    2024/10/11

    No. 99 令和6(2024)年10月11日

    軌道沿いを行軍する工兵第12大隊の兵士たち
    右奥に小さく小倉電気軌道の車両が写っている

    小倉の中心部と小倉南区の住宅地を結ぶ交通手段として、多くの市民に利用されている北九州モノレール(北九州高速鉄道)。そのルーツをたどると、兵営と兵営を結んだ馬車鉄道まで行きつきます。
     明治31(1898)年、陸軍の第12師団が小倉に設置され、用地の関係で、当時の企救郡東紫ひがしむらさき北方きたがたに歩兵第47連隊等の部隊が置かれると、小倉と北方の間の交通が次第に盛んになりました。これを受けて、日露戦争が始まった明治37(1904)、企救郡足立村の炭鉱経営者、原口大成らが軌道きどう敷設ふせつ免許を取得。明治39(1906)年に小倉馬車鉄道合名会社が設立(明治41年に小倉軌道へ改称)され、同年6月に香春口かわらぐち~城野間、翌年2月に城野~北方間が開通しました。開通当初は、軌間(レールの幅)914mmで20人乗り客車を運行する馬車鉄道でした。
     香春口の停留所は、小倉城内にあった歩兵第14連隊の兵営から紫川橋(陸軍橋)を通って伸びる直線道路の先にありました(現在の香春口北交差点付近)。そこからほぼ秋月街道に沿って軌道が敷設され、終点の北方停留所は北方兵営の門前に置かれました(現在の北方・北九州市立大学前バス停)。
     開業以降、次第に業績を伸ばしていったのと、馬力が時代遅れのものになったこともあり、大正7(1918)年には小倉電気軌道が設立されて小倉軌道の事業を引き継ぎ、大正9(1920)年に1067mm軌間への改軌と電化が行われ、馬車鉄道は路面電車となりました。昭和に入ると、香春口~大坂町(のちの魚町うおまち電停)間の延伸が行われ、全線が開業します。昭和17(1942)年に小倉電気軌道は門司~折尾間の路面電車を運行していた九州電気軌道に合併、さらに企業の戦時統合により西日本鉄道が誕生すると、魚町~北方間は同社の北方線となりました。
     北方線の営業利益は、軍隊の動向に非常に大きな影響を受けました。大正14(1925)年の第12師団久留米移転によって大打撃を受けましたが、昭和3(1928)年の歩兵第14連隊の北方移転や陸軍造兵廠ぞうへいしょう小倉工廠の開設等により業績を回復、昭和12(1937)年の日中戦争勃発以降は爆発的に営業成績を伸ばすなど、軍の存在と切っても切れない関係にあったのです。
     戦後は、急速に進む沿線の宅地化に伴って、小倉の中心部と郊外を結ぶ路面電車として多くの市民に利用されました。沿線の高校や北九州大学(現 北九州市立大学)に通う学生、小倉競馬場の観客などにとっても欠かせない交通手段でした。しかし、路線に沿ってモノレールが建設されることが決まったことを受けて、1980(昭和55)年11月に全線が廃止されます。
     北方線は、軍隊の存在が交通手段の整備を促した一例として、位置づけることができるでしょう。

    (学芸員O)

    【参考文献】
    西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
    「小倉馬車鉄道布設に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04013986800、壹大日記 明治37年6月(防衛省防衛研究所)

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