二又トンネル爆発事故 ~静かな山あいの大惨事~
No. 109 令和7(2025)年3月28日

太平洋戦争終結後、旧日本軍が製造・保管していた兵器・爆薬類をどのように処分するのかということは、占領軍にとっても、日本側にとっても、大きな問題でした。そのような中で発生してしまった事故が、「二又トンネル爆発事故」です。
当時、現在のJR日田彦山線彦山駅~宝珠山駅間は未開通でした。開通に向けた工事は進められており、田川郡添田町の彦山駅近くにあった二又トンネル、吉木トンネルは、トンネルのみ完成した状態となっていました。戦争末期に、陸軍が、空襲の危険を避けることができる火薬の保管場所としてこれらのトンネルに目を付け、大量の火薬類を運び込んでいたのです。二又トンネルには、500トン以上の火薬が貯蔵されていたといいます。
終戦後、火薬類は占領軍に引き渡され、処分することになりました。昭和20(1945)年11月12日、占領軍の将校の指示により、火薬の焼却作業が行われました。占領軍一行は、「絶対に安全である」旨を地域住民に説明していましたが、実際にはこれと反する結果となったのです。
二又トンネル内の火薬への点火後、トンネルから噴き出す火の勢いが次第に強くなり、100mほども離れた民家へ燃え移り始めました。そして午後5時20分、トンネルがあった山を吹き飛ばすほどの大爆発が発生します。
爆発により吹き飛ばされた大量の土砂・岩石は、トンネル近くの落合集落や彦山駅を襲いました。彦山駅前の広場には首や足のない遺体が数多く転がり、巨石につぶされて男女の見分けもつかない遺体もあり、「当時の惨状は正に地獄図絵そのもの」(『添田町史』上)でした。
これにより、近くの落合小学校の子どもたち29名を含む、147名の尊い命が失われました。このほか、負傷者149名、家屋損害131戸(埋没9戸、全壊24戸を含む)の被害が出ています。
現在、二又トンネルがあった場所は、日田彦山線BRT(ひこぼしライン)のバス専用道にある、切り通しとなっています。事故現場付近の専用道と一般道の交差点には、「爆発交差点」(旧「爆発踏切」)という名称がつけられています。また、近くのお寺には慰霊碑が建立されており、彦山駅横の休憩所には、爆発事故の写真や体験談等が展示されています。

二又トンネルに貯蔵されていた火薬は、もともと小倉陸軍兵器補給廠山田填薬所(山田弾薬庫)にあったものでした。これが、空襲を避けるため、英彦山の麓に疎開してきていたのです。二又トンネル爆発事故は、「小倉が軍都であったこと」がもたらした出来事の一つといえるでしょう。
(学芸員O)
【参考文献】
添田町史編纂委員会編『添田町史』上(添田町、1992年)
佐々木盛弘 文・絵『三発目の原爆』(1995年)
彦山駅横休憩所内展示