番外編11 「各人の『戦争体験』を継ぐ 小倉出身の被爆者」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2024年9月5日(木)朝刊16面掲載★
平和のまちミュージアムで開催中の企画展「八月九日を忘れるな!―小倉と原爆“if(もしも)”の歴史―」(10月6日まで)。その中で、小倉出身の被爆者・森尾勝磨さんを紹介している。森尾さんは、1927年に生まれ、旧制小倉中学校(現・小倉高校)を卒業した後、長崎医科大学(現・長崎大学)附属医学専門部へ進学した。
講義中に被爆した森尾さんは、友人と一緒に山へ避難したが、適切な治療法もなく、6日後(戸籍上は45年8月18日没)に亡くなった。
被爆当時、同大学の物理的療法科助教授で、森尾さんの級担任でもあった永井隆博士は、47年10月号の「婦人公論」に「原子病の床に」という原稿を寄せ、森尾さんの臨終に触れている。
森尾さんは「みんな泣くな。研究してくれ。ぼくたちを最後の原子病患者として食い止めてくれ給え」と言い残し、その言葉が自らも病と闘う永井博士を原子病研究へと駆り立たせた。
森尾さんの遺言により、父・伊三郎さんは永井博士へ研究費支援を行い、これを用いて永井博士は、原子力や原子病について記した研究書「生命の河」を出版した。
森尾さんの従弟にあたる方は、「もし、小倉に原爆が落とされていたら、勝磨兄さんは助かっただろう。でも、自分は生まれていなかったかもしれない」と話す。
ミュージアムに寄託いただいた森尾さんに関する資料は、中学時代の写真や日記、永井博士からの手紙を中心に55点に及ぶ。家族の中で大切に引き継がれていた記憶を「長崎に負い目がある」と逡巡しつつも、地元で役立たせてもらえるならと今回の企画展にも快くご協力いただいた。
93年8月8日付の西日本新聞には、直接戦争を体験した母親から、「もしも、あの時、原爆が落ちていたら、おまえも、この世に存在しなかった」と言われ育った小倉の方が、「それこそが、昭和三十年代生まれの、わたしの『戦争体験』である」と述べた記事が掲載されている。
こうした各人の「戦争体験」を語り継いでいくことが、いまを生きる私たちに課された責務だろう。そしてミュージアムが、その記憶の受け皿として活用されることを願っている。