谷口霊園の「戦災殉難者之碑」
No. 107 令和7(2025)年2月21日
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戦前からの古い歴史を持つ北九州市立谷口霊園(八幡東区高見)。同心円状に並ぶ墓地の区画の中心部に、上の写真の石碑が立っています。これは、昭和20(1945)年8月8日の八幡大空襲による戦没者を悼む、「戦災殉難者之碑」です。
八幡大空襲では、火災や焼夷弾の直撃等により、約1800もの命が失われました。火葬場の能力を超えるほどの多数の死者が出たため、遺体の火葬は、火葬場に隣接する畑で、野焼きの形式で行われました。空襲当時、八幡市衛生課の職員で、空襲犠牲者の火葬を担当した方は、次のように回想しています。
「火葬は野焼きだった。軍の命令で死体を三段くらいに積み、重油をかけ、鉄板を上にかぶせて焼いた。子どもを抱いたまま離さぬ人は二人いっしょに焼いた。わたしは、住所、氏名、血液型を記した胸の札をみて竹の筒に名前を書きつけ、ノドボトケをえらんでその筒に入れた。遺骨の残りは谷口墓地に埋めた。死臭は金比羅山のふもと、八王子の夏の野にいつまでもただよい続けた。」(『朝日新聞』昭和46年8月9日朝刊、地方面)
戦後、谷口霊園近くの槻田地区に住む方々による文化団体「八幡自由人クラブ」が慰霊碑建立を発議し、その運動の結果、昭和30(1955)年8月8日、谷口霊園に「戦災殉難者之碑」が建立されました。
石碑の裏には八幡市長守田道隆による碑文が刻まれています。そこには、日本に再び八幡大空襲のような惨禍がないことを願う、「万人の愛と祈りの心」をもって、「われら真に幸福な世代の建設に起ち上る市民のためにこの碑を建てる」という、建立の趣旨が示されています。
谷口霊園の「戦災殉難者之碑」は、小伊藤山公園の慰霊塔と並んで、空襲の惨禍に思いを馳せるための重要な場所であるといえるでしょう。
(学芸員O)
【参考文献】
『朝日新聞』昭和46(1971)年8月9日朝刊、地方面(北九州版)
前薗廣幸『北九州の戦争遺跡』(2024年)
「戦災殉難者之碑」碑文