北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    小倉出身の2人の元帥② ~杉山元~

    2024/02/23

    No. 83 令和6(2024)年2月23日

    前列中央が杉山元(昭和14年ごろ)

     前々回の学芸員日記(No.81)で、小倉出身の二人の元帥げんすいのうち奥保鞏やすかたについてご紹介しました。今回の学芸員日記では、もう一人の元帥、杉山げんについて、ご紹介します。
     杉山元は、杉山ただすの長男として、明治13(1880)年小倉紺屋町に生まれました。貞は、小倉高等小学校長、初代小倉幼稚園長、初代小倉高等女学校長(現 小倉西高校)を務めるなど、小倉の教育界に大きな足跡を残した人物です。
     杉山は、豊津中学校(現 育徳館高校)を卒業後、陸軍士官学校に入学(12期)、卒業後、小倉の歩兵第14連隊に所属し日露戦争へ出征、戦傷を負いました。大正期には、陸軍航空の発展に尽力、昭和に入ると、陸軍省の軍務局長(ナンバー3)、陸軍次官(ナンバー2)、参謀次長(参謀本部のナンバー2)、教育総監(陸軍内の教育をつかさどる役職)などの要職を務めました。陸軍大将に昇進後、林内閣および第一次近衛このえ内閣では陸軍大臣に就任。その間、日中戦争が始まり、陸軍首脳として戦争の遂行を指揮しています。陸軍大臣退任後には北支那方面軍司令官として日中戦争における現地軍の指揮を執りました。さらに、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年まで、陸軍の作戦部門のトップである参謀総長を務め、太平洋戦争の作戦指導を行いました。元帥の称号を与えられたのは、昭和18(1943)年のことです。
     このように、昭和の戦争の時代、杉山はほとんどの時期で陸軍の首脳部にありました。そのため、伝記『杉山元帥伝』ですら、太平洋戦争敗北に対する杉山の責任は「極めて大きい」としています(石橋正二郎「序」、石橋はブリヂストン創業者)。杉山自身も敗戦の責任をとり、終戦後の昭和20(1945)年9月12日、拳銃自決をしています。直後には夫人も自決し、杉山の後を追いました。
     杉山は、昭和戦前・戦中期の小倉にとって、「スター」の一人でした。昭和7(1932)年、杉山が久留米の第12師団長として最初に小倉入りした際には、軍人・市民の出迎えによる「晴れの郷土入り」が新聞で報じられています。陸軍大臣就任の際には、紀元節の式典後に小倉市長以下の要人、在郷軍人、国防婦人会員、小学校児童ら約3000人が出席して杉山の「武運長久祈願祭」が行われ、さらに小学校の児童が「杉山大将讃歌さんか」などを歌いながら旗行列を行うなど、小倉市街地は非常な賑わいを見せました。
     小倉にあった堺町尋常小学校、米町尋常小学校、天神島尋常小学校(いずれも現小倉中央小学校)の間では、杉山の出身校をめぐる論争が起こったといいます。堺町尋常小学校には、杉山の書による「忠孝」の2字が書かれた石碑があり、児童は石碑の前で軽くお辞儀をして登校していたそうです。「杉山少年会」なる子ども会もありました。
     現在では、北九州市民でも奥や杉山の名前を知る方はあまりいないでしょう。ただ、このように郷土出身の軍人を英雄視していた時代があったことは、覚えておくべきなのではないでしょうか。

    (学芸員O)

    【参考文献】
    「さかいまち」編集委員会編『さかいまち』(北九州市立堺町小学校創立九十一周年開校四十周年記念校史刊行会、1963)
    天神島小学校編『天神島』(北九州市立天神島小学校、1968)
    杉山元帥伝記刊行会編『杉山元帥伝』(原書房、1969)
    濱田良祐『小倉のひとたち』(小倉郷土会、1971)
    秦郁彦編『日本陸海軍総合事典(第2版)』(東京大学出版会、2005)
    北九州市立中央図書館所蔵「伸びゆく小倉の歩みし跡」

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