「特攻」という作戦
No. 87 令和6(2024)年4月19日
学芸員日記を読まれている方で、「特攻」、あるいは、「特攻隊」(「特別攻撃隊」)という言葉を聞いたことがない、という方は、ほとんどいないのではないでしょうか。
太平洋戦争末期に日本軍が広く行った作戦が、「特攻」です。飛行機の体当たりなどによる、生還を前提としない「決死」の作戦であり、これにより多くの若者たちが、その命を落とすことになりました。
最初に「特別攻撃隊」という名称が使われたのは、昭和16(1941)年12月、太平洋戦争開戦当初の真珠湾攻撃における特殊潜航艇(甲標的)部隊です。生還の可能性の低い作戦に従事する部隊(実際に真珠湾攻撃では10名中9名が戦死し、「九軍神」と呼ばれた)ではありましたが、帰還する搭乗員を収容するための手段はとられていました。その後も、交戦中の判断で体当たり攻撃が行われることもありましたが、まだ組織的に実施するという形には至っていませんでした。
作戦に従事する者の「戦死」を前提とする「特攻」が、組織的に計画、実施されるようになったのは、戦況が悪化した昭和19(1944)年のことです。7月には、海軍で、人間魚雷「回天」の試作機が完成、回天部隊が編成され、同年11月以降、実戦への投入が始まりました。同時期の陸軍でも、航空機に装着する体当たり用爆弾「桜弾」の研究が始まっています。
昭和19年10月には、フィリピン防衛戦に際し、海軍で「神風特別攻撃隊」が編成され出撃。これが陸海軍における航空特攻の始まりとなります。以降、陸海軍でさかんに特攻隊が編成されるようになり、特に沖縄戦では、おびただしい数の特攻隊員が体当たり攻撃に臨んでいきました。回天以外にも、特攻艇「震洋」や四式肉薄攻撃艇(マルレ)、人間機雷「伏龍」などの特攻用兵器が開発され、実際に出撃した方以外にもたくさんの若者が特攻のための訓練を行いました。
「特攻」は、人間の命の価値が極端に軽くなった時代相を、良くあらわした作戦であるといえるでしょう。
今週火曜日から始まった企画展「戦場からのことば~軍事郵便・遺書~」では、北九州市出身の特攻隊員に関する資料のほか、知覧特攻平和会館からお借りしたパネル等を展示しています。ぜひ、ご来館ください。
(学芸員O)
【参考文献】
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会編『特別攻撃隊全史』第2版、((公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会、2020年)
知覧特攻平和会館ホームページ(https://www.chiran-tokkou.jp/、4月18日閲覧)