あれから80年 ~八幡大空襲~
No. 115 令和7(2025)年8月8日

ちょうど80年前の今日、昭和20(1945)年8月8日、八幡は米軍による大規模な空襲を受け、市街地の大部分が焼け野原となりました。いわゆる、「八幡大空襲」です。
米軍の作戦任務報告書によると、マリアナ諸島から221機のB-29爆撃機が八幡上空へ飛来、午前10時頃から約40分間、約1180.8トンの焼夷弾を投下しました。その内訳は、M17集束焼夷弾4676発、M19集束焼夷弾664発です。M17集束焼夷弾1つは110発のM50焼夷弾、M19集束焼夷弾1つは38発のM69焼夷弾を束ねていますので、この日八幡には、約51万5000発のM50焼夷弾(平和のまちミュージアムで展示)、約2万5000発のM69焼夷弾が投下されたことになります(焼夷弾の種類についてはこちら)。
また、B-29による爆撃前後にかけ、爆撃機を護衛するために、P-47戦闘機151機が沖縄の伊江島から飛来、一部で機銃掃射(飛行機に搭載した機関銃によって、地上をなぎ払うように攻撃すること)を行いました。
同年12月にまとめられた各市の戦災概況図によると、この日の空襲により、旧八幡市で1785名、旧若松市で65名、旧戸畑市で27名、旧小倉市で1名、合わせて1878名の尊い命が失われました。最も被害の大きかった八幡では、このほかに負傷者610名、全焼家屋13296戸、罹災者53476人の被害が出ました。八幡市中心部の小伊藤山(現 小伊藤山公園)にあった防空壕では、約300名が窒息により命を落とすという出来事も起きています。
今の八幡東区内には、小伊藤山公園に「慰霊塔」、八幡市の空襲死者が荼毘に付された地に近い谷口霊園内に「戦災殉難者之碑」が建立されており、毎年8月8日には、地域の方々により慰霊祭が執り行われています。また、同区の平野市民センター、八幡大谷市民センターでは、今月30日まで、八幡大空襲をテーマとする展示会を開催しています。
また、現在開催中の企画展「記憶の表象」(10月13日まで)では、八幡大空襲の体験者や広島原爆の体験者の記憶を表現した、春野修二さんによるインスタレーション「その気配と面影が、ずっと傍に…」を展示しています。こちらもぜひご覧ください!
(学芸員O)
【参考文献】
奥住喜重・工藤洋三訳・編『米軍資料 北九州の空襲』(北九州の戦争を記録する会、2002年)
「全国主要都市戦災概況図」(国立公文書館デジタルアーカイブ)