北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    つづく戦争と北九州

    2025/03/07

    No.108 令和7(2025)年3月7日

     昭和20(1945)年9月2日の降伏文書調印後、連合国軍による日本の占領統治がはじまりました。8月15日、玉音放送直後の北九州では、連合軍は門司に上陸するといわれ、近隣の小倉、戸畑の住民は、身の回りの品や家財道具を馬車や大八車に積めるだけ積み、我先にと八幡や小倉の奥地に逃げ込んだそうです。10月6日、門司港に先遣隊が入り、11日に主力が到着、18日には小倉に第32歩兵師団の部隊が到着しました。
     進駐軍は、日本陸軍が使用していた土地や建物を接収し、官舎や病院、酒場として使用しました。接収された建物には、小倉陸軍造兵廠や造兵廠技能者養成所、北方の歩兵第14連隊兵舎、小倉室町にあった玉屋デパート、戸畑の松本健次郎邸(現 西日本工業倶楽部)などがあります。
     昭和25(1950)年6月25日に勃発した朝鮮戦争の際には、米軍は北九州から戦地へと赴きました。開戦から4日後の29日には、北九州地域で突然、警戒警報が発令され、戦時中と同じく灯火管制を命じられました。その後もたびたび警報が鳴り、防空壕へ避難していたものの、市民にとってはどこか他人事で、防空演習だろうという軽い気持ちで騒いでいたら、殺気迫った米軍に怒られたという体験も語られています。
     また、小倉には米軍用慰安施設「小倉R&R(Rest and Recuperation)センター」もつくられました。朝鮮戦争に出征した兵士は、戦闘から180日後に5日間の休息(のちに7日間に延長)が与えられ、小倉で束の間の休暇を過ごしました。施設内には宿泊施設のほか、シャワー室や理髪室、PX(売店)などがあり、多い時には500名近い帰休兵が施設を利用しました。当時、日本における公務員の初任給は5,000円でしたが、米軍は戦時加算により200ドル(当時は1ドル360円だったため72,000円)の給料をもらっており、米軍は小倉に相当なお金を落としていったのです。

    施設の利用者1万人達成を記念する濱田市長(当時)

     朝鮮戦争は昭和28(1953)年7月に休戦協定が結ばれました。その少し前、昭和26(1951)年に対日平和条約が結ばれ、翌年に松本邸の接収が解除、昭和34(1959)年に造兵廠全域の接収が解除され、北九州地域もようやく落ち着きを取り戻していきました。
     戦争は8月15日で終わったのではなく、その後も続いていたことを、地域の歴史から見つめ直してみることも必要ではないでしょうか。

    (学芸員M)

    【参考文献】
    カン・サラ「グローバルR&Rの起源を辿って-小倉RRセンター」『福岡 女たちの戦後 第6号』戦後の女性記録継承プロジェクト、2024年
    北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政・社会、北九州市、1987年
    毎日新聞西部本社編『激動二十年―福岡県の戦後史』、葦書房、1994年

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