北九州初空襲から80年
No. 91 令和6(2024)年6月14日
昭和19(1944)年6月16日、47機のB-29が北九州へと飛来し、約370発の爆弾を投下していきました。これは、北九州が受けた初めての空襲であり、またB-29による日本本土への初空襲でした。明後日6月16日で、この空襲からちょうど80年を迎えます。
この空襲については、これまでの学芸員日記でたびたび扱ってきました(No.28、No.64、No.66、No.67)。今回の学芸員日記では、浄法寺朝美(陸軍兵技中佐)「現地調査北九州空襲の教訓」(『婦人俱楽部』昭和19年8月号)、および内務省防空総本部がまとめた「北九州空襲ニ基ク教訓」(昭和19年8月)をもとに、防空(空襲対策)を指導する陸軍や内務省が空襲の教訓をどう見たのかということをご紹介します。
北九州初空襲は、八幡製鐵所のコークス炉を攻撃目標としたものであり、空襲には着弾すると炸裂する通常爆弾が使用されました。防空総本部がまとめた資料には、死者322人の死因として、直撃弾によるもの47名、爆風によるもの50名、家屋倒壊によるもの97名、土砂やがれきへの生き埋めによるもの102名、爆弾の破片によるもの6名などの数字がまとめられています。
とりわけ問題視されたと思われるのは、家屋倒壊による死者や、土砂・がれきで生き埋めになったことによる死者が多いことです。当時は地面に穴を掘っただけの一時的な待避を目的とした簡易な防空壕も多く、それらに爆発によって飛散した土砂などが降り注いだのです。また、そもそも防空壕へ避難していなかったことによる死者もいました。これらは、防空壕がしっかり整備されていたり、防空壕にきちんと避難したりしていれば、防げる可能性のある死でした。
そのため、陸軍・内務省双方とも、防空壕への待避はもちろん、地下式の防空壕には掩蓋(ふた)を整備すること、資材がないようであれば畳等で掩蓋をつけることなどを教訓としてまとめています。こういった教訓はすぐに実行に移されたようで、戸畑市では空襲後すぐに防空壕の規模と掩蓋等の研究改造に着手したという記録が残っています(『戸畑市史』第2集)。
一方で、防空壕への待避は、その後の救護活動や焼夷弾が落ちた場合の消火活動、被害の復旧活動の前段階として扱われました。防空総本部は、長時間にわたる空襲中に戦意の阻喪などがみられ、各方面の防空体制に不備があったとして、もし焼夷弾による空襲を受けた場合には大きな被害を受けたのではないかと指摘しています。そのため、待避は「積極的防空活動」に移る前段階であり、「突撃ノ準備行為」に匹敵するものであることをあくまでも強調して指導すべきとします。陸軍の浄法寺朝美も、今こそ「一億総蹶起」のときであるとし、国民は「自分はいま戦場にゐるのだといふ固い覚悟」を持つべきであると主張しています。
北九州への初空襲は、全ての国民をさらなる防空体制へと動員していくための材料として、使われていったのです。
平和のまちミュージアムでは、明日6月15日より常設展示室の展示品を一部入れ替え、初空襲関係資料を展示するミニコーナーを設置します。ぜひご来館ください!
(学芸員O)
【参考文献】
浄法寺朝美「現地調査北九州空襲の教訓」(『婦人俱楽部』1944年8月号、平和のまちミュージアム所蔵)
防空総本部「北九州空襲ニ基ク教訓」(1944年、平和のまちミュージアム所蔵)
戸畑市役所編『戸畑市史』第2集(戸畑市役所、1961年)