危険を冒して写された焼け跡 ~八幡大空襲の記録写真~
No. 120 令和7(2025)年11月28日

現在の西本町四丁目バス停付近。
帰宅する八幡製鐵所の工員の姿が写る(『市政通信やはた 復興平和記念特集号』より)。
昭和20(1945)年8月8日の八幡大空襲によって、八幡市街地は大部分が焼失してしまいました。空襲後の街の姿を、危険を冒して懸命に記録した方がいます。
その方は、八幡製鐵所の職員だった、浅田勇氏です。現在も八幡東区西本町のロータリーに建っている復興平和記念像の除幕に際して刊行された、『市政通信やはた 復興平和記念特集号』には、彼が撮影した空襲直後の八幡の写真が5枚掲載されています。また、同号には「熱風と憲兵の目をさけて決死的撮影」と題する、浅田氏の回想が収録されています。
それによると、空襲当日は熱風と黒煙により撮影を断念、翌日、空襲の惨状を記録すべく全市をさまよったとあります。そして、次のように撮影を行ったのでした。
軍隊も居り、要塞地であり、被害の惨状は記録したり、報道したりした場合は極刑ものだったので、私としては決死的気持だった。カメラはスーパーシックス。人目のない時をねらってすばやくシャッターを切り、直ちにカメラはかくしてしまうという早業を必要とした。こんな冒険もあえてするのは愛郷心からだった。別に撮影をしてスパイをする心算りはないし、報道に使うわけもないのだが、ただ記録したかったのだった。残念なのは早業であった為露出や巨離スケール等は出たとこ勝負の出たらめもので原板は良いものとはいえない、沢山の中から三〇枚位は役に立つものが残ったわけである。
当時北九州は、下関要塞地帯に指定されており、特に屋外での写真撮影等については、厳しい制限が設けられていました(学芸員日記No.16参照)。憲兵に見つかれば身柄を拘束されかねないなかで、市街地の惨状を記録するという使命感のもと、「決死的気持」の撮影を行ったのでした。浅田氏は、前掲の回想文を、「私達の八幡市は現在少しずつ立ちかえっているようだが、再び戦火に焼かないよう私達は願いたいものである」という言葉で結んでいます。
現在開催中のパネル展示「焼け跡と現在」では、20枚のパネルで、北九州における空襲被害の写真と現在の様子などを紹介しています。企画展「防空先進都市・北九州」と併せて、ぜひご覧ください。
(学芸員O)
【参考文献】
『市政通信やはた 復興平和記念特集号』(八幡市教育委員会、1953年6月)