太平洋戦争はじまりの地、コタバルにて
No. 121 令和7(2025)年12月19日
早いものでもう1年が終わりますね。私は学生時代から、国内外の戦争遺跡や戦争・平和に関する博物館巡りを趣味としており、戦後80年の今年はマレーシアを訪れました。目指したのは、太平洋戦争はじまりの地であるコタバルです。
昭和16(1941)年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃するよりも先に、陸軍はイギリス領マレー半島への上陸作戦を開始しました。マレー作戦を指揮した第25軍司令官の山下奉文は、大本営に向けて「八日四時、軍ハ奇襲上陸ニ成功セリ」との電報を打っています。同軍は上陸の翌日にはコタバルを制圧、翌年2月15日、目標としていたシンガポールを陥落させました。

日本軍が上陸したパンタイ・サバクのクアラ・パク・アマット
(2025年10月撮影)
現在、コタバルの上陸地には何も残っておらず、海岸に向かう途中にぽつんと記念碑が建つのみです。戦争博物館などがある市街地からも10kmほど離れているため、現地のタクシー運転手さんからも「こんな何もない場所にどうして来たの?」と尋ねられました。たしかに、1時間ほど滞在したなかで、海岸線沿いを散歩していた地元民と思われる2人組とすれ違ったほかは、牛以外見かけませんでした。

「12月7日午後11時45分※、日本軍上陸」と刻む記念碑
(2025年10月撮影)
コタバルを訪れる前には、東京国立近代美術館で中村研一の《コタ・バル》(同館蔵、無期限貸与作品)を鑑賞しました。中村は宗像郡(現 宗像市)に生まれ、戦中は作戦記録画(軍の委嘱による公式の戦争画)の制作を請け負った画家です。《コタ・バル》は、中村が昭和17(1942)年6月、同地に2週間ほど滞在し、現場視察や現地住民への聞き取りを経て制作されました。中村が見た鉄条網や鉄柱は現存していませんが、現場を通して描かれた作品は、いまでも当時の状況をありありと伝える歴史的資料だとも言えるでしょう。
また、中村は北九州に関する戦争記録画も残しています。昭和19(1944)年8月20日の八幡製鐵所を目標とする空襲の際、二式複座戦闘機「屠龍」がB-29に体当たりした出来事(詳しくは学芸員日記No.95参照)を描いた《北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す》(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)です。この作品は、来年1月4日(日)から開催の北九州市立美術館『鉄と美術 鉄都が紡いだ美の軌跡』で展示される予定です。歴史の痕跡を残す絵画を、私も観に行きたいと思います。
※時間はコタバル市の見解。『戦史叢書 マレー進攻作戦』には、12月8日午前2時15分に「侘美支隊のコタバル第一次上陸部隊が敵岸に達着した。」との記載あり。
(学芸員M)
【参考文献】
針生一郎ほか編『改訂版 戦争と美術 1937-1945』(国書刊行会、2016年)
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マレー進攻作戦』(朝雲新聞社、1966年)