小倉への兵器工場誘致運動
No. 79 令和5(2023)年12月15日
今からちょうど100年前、大正12(1923)年に発生した関東大震災により、東京小石川にあった陸軍造兵廠東京工廠(東京砲兵工廠)が壊滅的な被害を受けました。陸軍は工廠を移転して復旧する方針をかため、移転先の検討を始めます。
この方針をうけて、各地で工廠誘致運動が始まりました。兵器工場の存在が、周辺地域にもたらす経済的効果を期待してのものです。震災直後の大正12年11月ごろにはすでに、遠賀郡戸畑町(のち戸畑市)や同郡黒崎町(のち八幡市)が誘致運動を開始しています。これとほぼ同時期に、当時の新妻駒五郎市長が陸軍大臣に面会するなど、小倉市も水面下で運動を始めていました。小倉にはすでに大阪工廠小倉兵器製造所(大正5年に門司から移転)が存在し、これを拡張するかたちでの誘致が可能と考えたのです。
翌年9月には、小倉市長、企救郡足立村長・板櫃町長の連名で、衆議院に請願書が提出され、採択されました。その趣旨は、「小倉兵器製造所を拡張し、東京工廠の一部機能、特に飛行機、自動車、無線電信等、将来需要の増加する工場を新設して民間の工業を促進し、非常時には国防に貢献するよう要望する」というものでした。小倉市が移転先として適している理由としては、①すでに小倉兵器製造所があって基礎的設備があること、②交通が便利なこと、③付近に八幡製鐵所などの工場が多く存在すること、④門司、若松などの貿易港があること、⑤近隣に鉱山が多いこと、などが挙げられています。「北九州の中枢」、「我が小倉市は九州に於ける工業の中心地にして、将来は附近各市を連合包容して人口約百万の大都市たるべき運命を有し…」などと、小倉のありようがかいま見える点でも興味深い請願書です。
大正14(1925)年、軍縮により第十二師団が小倉から久留米へ移転すると、さらに小倉は熱心に誘致運動を行いました。前述のものと同じ趣旨の請願書を、大正15(1926)年と昭和2(1927)年にも陸軍当局へ提出しています。当時、小倉出身で陸軍の要職にあった奥保鞏(元帥)や杉山元(のちに元帥)などにも、働きかけを行ったといわれています。
以上のような誘致運動が実を結び、昭和2年10月、工廠の移転先が小倉に決まりました。こうして、西日本屈指の大兵器工場である陸軍造兵廠小倉工廠(のちの小倉陸軍造兵廠)は誕生したのです。
(学芸員O)
【参考文献】
「小倉兵器製造所拡張に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01001013800、永存書類甲輯第6類 昭和2年(防衛省防衛研究所)
「伸びゆく小倉の歩みし跡」(北九州市立中央図書館所蔵)
北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政・社会(北九州市、1987年)