小倉出身の2人の元帥① ~奥保鞏~
No. 81 令和6(2024)年1月26日
みなさんは、日露戦争時の連合艦隊司令長官東郷平八郎のことを、「東郷元帥」と呼んでいるのを聞いたことはありませんか?
戦前の日本において、天皇の軍事顧問として、功績が顕著である陸海軍大将に与えられた称号が「元帥」です。天皇を除くと日本陸海軍の最高位であり、「元帥陸軍大将」「元帥海軍大将」、または「○○元帥」などと呼ばれました。明治31(1898)年から昭和20(1945)年の間に、陸海軍で皇族9人、非皇族22人に元帥の称号が与えられています。
実は、上記の22人のうち、陸軍の2人が小倉出身です。22人中11人が明治陸海軍の中枢を担った薩摩(鹿児島)、長州(山口)出身であることを考えれば、2人という数はかなり多いように感じます。この2人は、陸軍のまちとして発展してきた戦前の小倉にとって、「郷土の英雄」でした。
そのうちの1人が、奥保鞏です。
奥は、弘化3(1847)年に小倉藩士奥保矩の長男として生まれました。15歳のとき、馬廻役(藩主の周囲を警備する役)を務めていた奥保義の養子となり、奥家の家督を継ぎます。慶応2(1866)年に始まった第二次長州征討では、一部で長州藩との戦闘に参加しました。
その後、明治4(1871)年、小倉に鎮西鎮台が設置されると常備四番小隊長となりました。同年、陸軍大尉心得となり、以降、陸軍軍人として軍功をたてていきます。
士族反乱である佐賀の乱、西南戦争などの鎮圧に参加したのち、明治10(1877)年に小倉の歩兵第14連隊長(当初は心得)に就任、以降、歩兵旅団長や東宮武官長(皇太子に仕える軍人の長)などを歴任し、明治27(1894)年の日清戦争では第五師団長として出征しました。日露戦争前年の明治36(1903)年には、薩長・皇族出身以外で初めての陸軍大将に任じられています。
日露戦争には、第2軍司令官として出征、南山の戦い、遼陽会戦、奉天会戦などを指揮しています。日露戦争後には、陸軍の作戦部門のトップである参謀総長に就任、そして明治44(1911)年、これも薩長・皇族出身以外で初めて、元帥の称号を与えられました。参謀総長を辞したのちは、政治に関与するというようなこともほとんどなく、昭和5(1930)年に83歳でその生涯を終えています。
平和のまちミュージアム近くの歩兵第十四連隊跡地碑の横に、昭和9(1934)年に建立された小さな「奥元帥生誕之地」碑があります。本来は、現在の小倉北区堺町にあったようですが、戦後いずれかの時期に、現在の場所に移されたようです。
もう1人の元帥、杉山元については、次回以降の学芸員日記で。
(学芸員O)
【参考文献】
黒田甲子郎『奥元帥伝』(国民社、1933)
『九州の明治文化財』(日本観光協会九州支部、1968)
「G-motty 小倉藩士屋敷絵図」(https://hub.arcgis.com/maps/182c023d3db64c73b55033d26aa9c5fd/explore?location=33.883850%2C130.878550%2C15.91、2024年1月25日閲覧)