小倉陸軍造兵廠の疎開
Vol.44 令和4(2022)年12月2日
(昭和23年撮影、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より、一部加工)
太平洋戦争の後半、戦況が悪化してくると、空襲から逃れるための工場疎開が始まります。西日本最大級の兵器工場であった小倉陸軍造兵廠も、例外ではありませんでした。
造兵廠の疎開は、昭和19(1944)年以降本格化します。同年3月から、大分県宇佐郡糸口村(現 宇佐市)へ第二製造所を移転する計画がスタートし、用地買収や工場建屋の建設工事が始まりました。同年6月のB29による北九州初空襲をはさんだ9月より本格的な稼働が始まり、機関砲などが製造されます。これが、「小倉陸軍造兵廠糸口山製造所」です。
昭和20(1945)年1月からは、第一製造所の一部が大分市へ移転します(「大分製造所」)。この工場は、鐘紡大分工場の跡地を再利用し、航空機の部品等を作っていました。同年6月に空襲の被害にあい、翌7月には大分県速見郡立石町(現 杵築市)への再移転が行われました。立石には同年3月ごろから第一製造所の主力が移転し、第一製造所の大部分はここで終戦を迎えます。
昭和20年3月には、小倉陸軍造兵廠本部と第二製造所、および現在の春日市にあった春日製造所が、大分県日田への疎開を開始します。日田には多数の工場が建設され、本土決戦に備えたトンネル工場の建設も進められました。残る第三製造所は同年7月に油須原(福岡県田川郡赤村)への疎開が決まりましたが、実際に移転することはなく終戦となりました。
これらの疎開工場には北九州地域の学生も動員され、建設工事や製造業務に携わっています。立石には小倉中学校(現 小倉高校)や門司中学校(現 門司学園中高)など、日田には明治専門学校(現 九州工業大学)や門司商業学校(現 門司大翔館高校)などの生徒が動員されていることが『小倉陸軍造兵廠史』等により確認できます。
今後、小倉に造兵廠が存在したことが周辺地域に与えた影響についても、調べていきたいと思っています。
(学芸員O)
【参考文献】
小倉中学校第三十六期生一同『学徒動員』(宅間文雄、1977年)
小倉陸軍造兵廠同窓会編『小倉陸軍造兵廠史』(小倉陸軍造兵廠同窓会、1988年)
小倉陸軍造兵廠同窓会編『続・小倉陸軍造兵廠史』(小倉陸軍造兵廠同窓会、1989年)