小倉陸軍造兵廠への引込線 ~原町緑道~
No. 114 令和7(2025)年6月20日

現在の都市高速大手町出入口付近
小倉陸軍造兵廠敷地内へは、旧小倉駅(現在の西小倉駅付近)から、資材の搬入、完成品の搬出のための線路(引込線)が敷設されていました。自動車輸送がまだまだ発展していない時代、貨物を大量に運ぶためには、鉄道が不可欠だったのです。

引込線の本線(上図①)は、日豊本線と長崎街道が交差する踏切付近で日豊本線から分れ、東向きに進み、造兵廠敷地東側の紫川沿いまで伸びていました。もともとは、造兵廠の前身の一つである大阪砲兵工廠(のちに大阪陸軍造兵廠)小倉兵器製造所の引込線として建設されたもので、造兵廠建設時に現在の都市高速大手町出入口付近から紫川橋の横まで延伸されています。戦後には、紫川を渡る橋が建設され、対岸の十條製紙への引込線としても利用されました。
引込線の本線から分岐して、造兵廠の西側へも引込線が敷かれていました。ただしこれは、やや複雑な変遷を辿っています。
造兵廠建設当初(昭和6年頃敷設)の造兵廠西側への引込線(上図②)は、現在の永照寺南側付近から、現在の新小倉病院付近を通り、西小倉小学校付近まで敷かれていました。この引込線へ外部から貨物を運ぶためには、引込線の本線からスイッチバック(折り返し運転)するかたちで、列車を運行しなければなりませんでした。この引込線は、昭和14(1939)年頃に廃止されたようで、線路の跡地には第二製造所第二輪削工場の建物などが建設されています。終戦時、造兵廠敷地西側へ向かう線路は存在していなかったようです。
戦後の米軍による接収時に、戦争末期の建物疎開による空き地等も利用して、改めて造兵廠跡地西側への引込線(上図③)が敷設されました。引込線の本線から直通できるように敷かれていたため、スイッチバックする必要はありませんでした。この引込線は、造兵廠跡地が米軍から返還される頃まで使われていたようです。

これらの引込線跡のうち、本線(①)の日豊本線分岐から大手町公園付近の線路跡と、戦後に敷かれた支線(③)の一部が、原町緑道として整備され、市民の散歩コースとなっています。鉄道跡らしい緩やかなカーブが残る道を歩きながら、ぜひ兵器工場があった時代を想像してみてください。
なお、平和のまちミュージアム多目的ホールでは、7月13日(日)まで、小倉陸軍造兵廠が存在していた時代の写真と、現在の同じ地点の写真を展示するミニ展示「小倉陸軍造兵廠 before and after」を開催しています。企画展「まちなかの大兵器工場」と合わせて、ぜひご覧ください!
(学芸員O)
【参考文献】
小倉市『工場適地としての旧小倉陸軍造兵廠』(北九州市立文書館所蔵)
小倉陸軍造兵廠同窓会編『小倉陸軍造兵廠史』(小倉陸軍造兵廠同窓会、1988年)
小倉陸軍造兵廠同窓会編『続 小倉陸軍造兵廠史』(小倉陸軍造兵廠同窓会、1989年)
前薗廣幸『北九州の戦争遺跡』(2024年)
「臨時軍事費支弁建造物設備拡張実施の件(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121315000、陸支受大日記(密)第55号 昭和14年自8月22日至8月24日(防衛省防衛研究所)
「臨時軍事費支弁建造物設備拡張実施の件(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04121315200、陸支受大日記(密)第55号 昭和14年自8月22日至8月24日(防衛省防衛研究所)
国土地理院地図・空中写真閲覧サービス(https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map?search=history、2025年6月20日閲覧)