幻の特攻~蕪島水上特攻基地~
No.63 令和5(2023)年4月21日
先日、鹿児島県は知覧、万世、鹿屋を訪れ、それぞれ特別攻撃隊(特攻隊)の展示を行うミュージアムを見学しました。特攻とは、人が乗った飛行機や小型艇等で敵の艦船に体当たりする攻撃のことを指し、太平洋戦争末期に行われた“決死”の戦法です。
各館には、それぞれの地から出撃した隊員の遺影や遺品などが展示されていました。なかでも万世特攻平和祈念館において、北九州市出身・木原愛夫少尉の絵画を展示していたのが印象的でした。木原さんは幼少期より絵を描くことが好きで、小学校では先生から3重丸や4重丸をもらい、それを親御さんに見せるのが嬉しかったそうです。昭和20(1945)年4月6日、第73振武隊として万世飛行場から出撃し、沖縄周辺の洋上にて20歳という若さで散華されました。
(万世特攻慰霊碑「よろずよに」 特攻隊員の身体はこれから出撃する南の沖縄を、顔は故郷や靖国神社のある東を向いている。)
さて、太平洋戦争末期、北九州にも特攻基地があったことを知っていますか。昭和20(1945)年5月、海上挺進第三十四戦隊・第四海上挺進整備隊が編成され、門司市(現在の門司区)喜多久海岸にある蕪島に自然洞窟を利用した蕪島水上特攻基地と呼ばれる基地が建設されました。ここに、陸軍が配備したのが「四式肉薄攻撃艇」、秘匿名は「連絡艇」で頭文字をとって㋹(マルレ)と呼ばれた小さなモーターボートです。マルレ艇は長さ5mのベニヤ製で、自動車用のエンジンを積んだ簡素な造りでした。周防灘に米軍が侵入してきた際、マルレ艇に25キロ爆雷を積み、敵艦に体当たりするという計画が立てられていました。隊員のほとんどが、20歳前後の若者だったそうです。幸いこの蕪島水上特攻基地からは、一度の出撃もなく終戦を迎えています。
特攻の地・南九州を訪れたことで、故郷から遠く離れた場所で夢半ばにして散っていった大勢の若者がいたこと、また、北九州も特攻と無関係ではなかったことを改めて考えさせられました。
(学芸員M)
【参考文献】
木俣滋郎『日本特攻艇戦史―震洋・四式肉薄攻撃艇の開発と戦歴』光人社、1998年
林博史編『地域のなかの軍隊6 九州・沖縄 大陸・南方膨張の拠点』吉川弘文館、2015年
万世特攻平和祈念館ものがたり よろずよに 編さん委員会編『万世特攻平和祈念館ものがたり よろずよに』万世特攻慰霊碑奉賛会、2023年