戦前の関門海峡架橋計画
No.77 令和5(2023)年11月17日
先日11月14日、関門橋が昭和48(1973)年の開通から50周年を迎えました。関門海峡のシンボルとして、本州と九州を結ぶ役割を担い続けて半世紀が経ったことになります。
ところで、戦前にも関門海峡に橋を架ける計画が存在したことをご存知でしょうか。
最初の架橋計画は、鉄道による本州・九州直結の必要性から生まれたものでした。明治44(1911)年、後藤新平鉄道院総裁のもと、架橋に関する調査が広井勇東京帝国大学工科大学教授に嘱託されます。広井は、大正5(1916)年に調査結果をまとめます。それは、関門海峡が最も狭くなる早鞆の瀬戸に、全長2980フィート(約908.3m)、幅80フィート(約24.4m)、海面からの高さ200フィート(約61m)の鉄橋をかけ、その上に広軌(現在でいう新幹線の線路幅)鉄道複線、電車線路複線、幅12フィート(約3.7m)の通路2本を設けるというものでした。
この案は、同時に調査がされていたトンネル建設案と比較され、工費や国防上の観点から、トンネル案が採用されます。その後、物価騰貴や関東大震災などによる中断を経て、最終的には昭和17(1942)年開通の関門鉄道トンネルへと結実するのです。
昭和期に入ると、再び橋梁の架設計画が持ち上がります。昭和6(1931)年、民間で設立された関門連絡鉄道株式会社が、早鞆の瀬戸に架かる鉄道道路併用橋(吊り橋)の建設工事の出願をしましたが、これは許可されませんでした。また、当時道路行政を管轄していた内務省の方でも吊り橋による道路建設に関する調査が行われました。しかしながら、橋は空襲の際に目標となり、落橋すると海上交通の障害になるという理由から、橋梁案は軍部の反対に遭い、道路による関門連絡もトンネル案に落ちつきます。昭和14(1939)年から本工事が着工され、終戦をはさみ、昭和33(1958)年に関門国道トンネルが開通しました。
こうして、関門橋開通に至るまで、関門海峡に橋が架けられることはありませんでした。これには、橋の建設に軍部が反対していたという事情も深く関わっています。日本が戦争のない時代を迎えたからこそ、関門橋ができたといってもいいのかもしれません。
(学芸員O)
【参考文献】
「下関海峡横断鉄橋設計報告」(『土木学会誌』5巻5号、1919年)
関門トンネル工事誌編纂委員会編『関門トンネル工事史』(日本道路公団、1960年)
日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史』6巻(日本国有鉄道、1972年)
日本道路公団関門建設所編『関門橋』(日本道路公団関門建設所、1974年)