戦時下の小学校
Vol.46 令和4(2022)年12月16日
戦争は、子どもたちの学校生活に大きな影響を与えました。
昭和14(1939)年9月から、毎月1日は「興亜奉公日」(太平洋戦争開戦後は毎月8日の「大詔奉戴日」)とされ、各学校では①早起遥拝、②始業前の朝礼、③出征兵士の武運長久を祈る黙とう、④慰問文や慰問袋の作成、⑤勤労奉仕などが行われることになりました。
太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年3月、「国民学校令」が公布され、それまでの尋常小学校・高等小学校は「国民学校」に改められます。国民学校では、「皇国ノ道」に則って初等教育を施すこととされ、国家主義的傾向の強い教育が実施されました。
各学校には、「奉安殿」が作られ、天皇・皇后の写真(「御真影」)が収められました。奉安殿の前を通る時には、子どもたちは最敬礼(頭を深く下げたお辞儀)をしなければなりませんでした。
また、学校では勉強だけでなく、食糧増産のための農作業なども行われました。昭和19(1944)年ごろになると、現在の中学生にあたる国民学校高等科の児童は、学徒動員の一員として工場へ働きに出るようになりました。
北九州への初空襲直後の昭和19年7月からは、学童疎開も始まります。北九州地域の疎開は、親類の家に疎開する「縁故疎開」の方法がとられ、次々と児童は郊外へ引っ越していきました。例えば、八幡第一国民学校(現 八幡小学校)の児童数は昭和18(1943)年から約1年間でおよそ700人減少しています。
現在開催中の「令和4年度 収蔵品展」では、戦時下の子どもたちの暮らしの様子が分かる資料を展示しています。ぜひご覧ください!
(学芸員O)
【参考文献】
北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』教育・文化(北九州市、1986年)
深谷昌志『昭和の子ども生活史』(黎明書房、2007年)