日中戦争下の皇紀二千六百年
No. 85 令和6(2024)年3月22日
太平洋戦争が始まる前年の昭和15(1940)年、日本は節目の年を迎えました。それが、皇紀二千六百年(または紀元二千六百年)と呼ばれるものです。
皇紀とは、日本神話で神武天皇が即位したとされる、(西暦)紀元前660年を元年とする年の数え方で、令和6(2024)年は、皇紀2684年にあたります。戦後はほとんど使われなくなりましたが、昭和戦前・戦中期には頻繁に使用されていました。
皇紀二千六百年を迎えるにあたり、政府・民間で様々な記念行事が行われました。特に大規模に行われたのが、11月10日の「紀元二千六百年式典」です。天皇・皇后臨席のもと、式典では近衛文麿内閣総理大臣によるお祝いの言葉奏上、勅語(天皇のことば)の下賜、紀元二千六百年頌歌の斉唱、万歳三唱などが行われました。式典の模様はラジオで実況中継されましたが、天皇が勅語を読み上げるシーンでは、国民がどのような姿勢で天皇の言葉を聞いているかわからず、不敬にあたるようなことをしている者がいるかもしれないという理由で、中継が中断されました。
式典以外にも、さまざまな記念行事が行われました。同年に計画されていたオリンピック(いわゆる「幻の東京オリンピック」)や万国博覧会は、日中戦争の影響により中止されましたが、天皇が軍隊を観閲する観兵式や観艦式、体育大会、美術展などが開催されました。宮崎県では、八紘一宇の塔(現 平和の塔)が建設され、それに合わせて博覧会が行われました。日中戦争下において、皇紀二千六百年を記念する一連の行事は、天皇を中心とする国家のもとで国民を団結させようとする意図があったと思われます。
北九州でも、様々な祝賀行事が行われたようです。『写真週報』145号には、小倉市の提灯行列の写真が掲載されています。また八幡市では、豊山八幡宮そばに、国防婦人会によって記念碑が建設されました(写真)。そのほか、各地の神社の鳥居や、参道の石柱などに、皇紀二千六百年を記念したものが見られます。北九州における「皇紀二千六百年記念」の全体像を、今後調べていきたいと思っています。
(学芸員O)
【参考文献】
内閣情報部編『写真週報』145号(紀元二千六百年祝典臨時号、1940年)
古川隆久『皇紀・万博・オリンピック』(中央公論新社、1998年)