昭和19年8月空襲と体当たり勇士
No. 95 令和6(2024)年8月20日
中央の細長い海が洞海湾、中央左の八幡製鐵所洞岡地区からは黒煙が上がっている
今からちょうど80年前の昭和19(1944)年8月20日から21日未明にかけ、八幡製鐵所を標的とした2回目の空襲が、米軍により行われました。特に20日の空襲は、北九州で初めての白昼の空襲となりました。
もともと米軍は、八幡・戸畑市街地に対する焼夷弾による空襲を計画していました。しかし、満州の鞍山にあった昭和製鋼所への昼間の空襲が成功と判定されたことを受けて、6月の初空襲時には有効な被害を与えることが出来なかった八幡製鐵所に対して白昼に攻撃すれば、日本の製鉄能力にダメージを与え、さらに日本軍の上層部等に心理的な打撃を加えることが出来ると、米軍は判断したのです。攻撃には500ポンド爆弾(250キロ爆弾)が使用され、投下目標には、最初の空襲で目標となった東田のコークス炉に加え、その後の偵察で発見された洞岡地区のコークス炉が設定されました。
当日は、昼間61機、夜間10機のB-29が、計446発の爆弾を投下しました。このうち計226発が製鐵所構内に落下し、標的となったコークス炉にも直撃弾が出ました。この結果、製鐵所内で46名の死者が出たほか、八幡市、戸畑市、小倉市で計約170名の死者が出ています。
この空襲では、昼間だったこともあり、激しい空中戦が行われました。中でも、野辺重夫軍曹・高木伝蔵兵長が搭乗していた二式複座戦闘機「屠龍」が、「野辺、体当たり敢行」(『戦史叢書』による)の無線通信を発したのち、B-29の1機に体当たりを敢行、バラバラになった破片が別のB-29に当たり、一挙に2機のB-29を撃墜したことは、「体当たり勇士」として現在でも語り継がれています。空襲直後には、屠龍が墜落した場所に地元住民の奉仕活動によって石碑が建立され、現存しています。
(学芸員O)
【参考文献】
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土防空作戦』(朝雲新聞社、1968年)
北九州の戦争を記録する会『米軍資料 八幡製鉄所空襲』(北九州の戦争を記録する会、2000年)