歩兵第14連隊と小倉
2022/08/19
Vol.29 令和4(2022)年8月19日
平和のまちミュージアムの近くに、写真の石碑があります。これは、小倉陸軍造兵廠ができる前、歩兵第14連隊がこの地に存在していたことを示す碑です(お墓ではありません)。
歩兵第14連隊は、明治8(1975)年、福岡県内で初めての歩兵連隊として小倉城内に設置されました。これが、「軍都」としての小倉の歴史の始まりであるといわれています。明治10年に発生した西南戦争では、乃木希典連隊長のもと、西郷隆盛率いる西郷軍と激しい戦闘を繰り広げ、軍旗を奪われました。このことは、乃木が明治天皇の葬儀当日に、自決をした要因の一つといわれています。
これ以降、歩兵第14連隊は「勝山連隊」とも呼ばれ、小倉の「郷土部隊」として、数多くの戦争へと参加することとなります(「郷土部隊」とは、地元出身の兵士が数多く含まれた部隊のことをいいます)。明治から大正時代にかけて、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵に参加しました。日露戦争最大の陸上戦である奉天会戦にも参加しています。
東京工廠の小倉への移転が決まると、昭和3(1928)年に歩兵第14連隊は北方の歩兵第47連隊跡地へと移転しました。移転後建てられたのが、上の写真の記念碑です。
昭和の戦争では、第一次上海事変に参加したのち、昭和11年から満州へと駐屯、そのまま日中戦争勃発以降も満州の警備にあたっています。昭和19年には連隊の一部がサイパンへと派遣され、そのまま玉砕(全員戦死)しました。翌年、本土決戦に備えて宮崎県へと移動、そこで終戦を迎えています。
約70年の歴史の中で、数多くの若者が戦闘により、あるいは戦場で病気にかかって亡くなりました。その霊の多くは、足立公園内の忠霊塔に祀られています。