番外編5「同情でも画一的でもなく 戦争当事者への共感」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2023年11月16日(木)朝刊20面掲載★
戦争や平和をテーマとするミュージアムではよくあることだろうが、実に多くのさまざまな意見をいただく。その中で、「当事者の気持ちを考えてほしい」という批判的な言葉に、首をかしげることがある。
当事者、ここでは、戦争体験者を指すのだろうが、実際は彼らから展示に対する否定的な意見は、ほとんどない。要するに第三者が、当事者に「共感」し、戦争体験者の気持ちを代弁しようとしているのだろう。
そうした意見の根源は、本当に「共感」なのだろうかと、ふと考える。彼らの言葉の節々に、体験者がかわいそうだという「同情」を感じてしまうからだ。
もちろん、個々の意見を否定する気は毛頭ない。むしろ批判も含めてさまざまな意見があってこそ、ミュージアムは活気づく。
しかし、基本的に私たちは、体験していないことを語る言葉を持たない。それでも語らざるをえない場合、どうにか自身の経験を用いて、この非体験性を補おうとする。そこで往々にして、相手の経験を自身の価値観で判断してしまう。
「共感」と「同情」は似て非なるものだ。自身の経験や価値観から、他者の気持ちを推し量ろうとするのは、共感ではなく同情である。多くの人が相手に共感しているつもりで、無意識に同情してしまっているのではないだろうか。
平和教育においても「もし、自分が同じ立場に置かれていたら」と想像させ、戦争体験者への共感を促すような取り組みが実践されている。しかし、この「共感」を主軸とした実践は、ある危険をはらんでいる。
この場合の共感は、戦争反対という画一的なスローガンに収れんし、その背景にあるなぜその思いに至ったのかという経緯や、何が問題なのかといった構造的な問いにまでたどり着きにくいからだ。
昨今、声高に叫ばれる「戦争体験の継承」であるが、どういった取り組みなら、継承が可能なのか。また、何をもって戦争体験が継承されたといえるのか。
この答えを、戦後80年近くが経過し、当事者に共感できる機会が減っている中、継承に関わる私たちが模索していかねばならないと、頭を抱える日々である。