番外編8「気軽に集い、語れる場に 恋バナも平和も」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2024年4月18日(木)朝刊16面掲載★
戦争や平和に関する話をすると、「意識高い系」などと揶揄され、ある種敬遠されることがある。
私自身も平和研究をしていた学生の頃、こうしたニュアンスの言葉にたびたび接したが、その言葉が全くピンとこなかった。
それは、自分が何か特別な意識をもって、特別なことをしているわけではなく、単に、自分の興味関心があることを学んだり、話したりしていたに過ぎなかったからだと思う。
先日、以前から平和に関心を持ってミュージアムの活動に携わってくれている女性と久しぶりに会った。近況をたずねると、まず出てきた言葉が「祖父が出征した船を特定しました!」であった。
家族の歴史を通じて戦争を問い、記憶と記録の継承の実践に社会人として取り組む彼女にとっても、きっと深く意識した話題ではなく、探していたものが見つかった喜びを共有できる誰かに、素直に伝えたかっただけだと思う。そして、もしかしたら、彼女にはそうした話題を気軽に話せる人が、周りに少なかったのかもしれない。
平和に関して語ることは、誰も批判しえない、ある種の「正しさ」をまとってしまうが故に、多くの人が自分の言葉で語るのを躊躇してしまう現実もあるのではないだろうか。
もし気軽に想いや問いを共有できる仲間や拠点があれば、孤独な実践であったものが外に広がり、より深まる可能性も考えられる。
一方で、平和に関心を抱く若い世代に対し、「未来を担う若者」として、やや過剰な期待が寄せられもする。息の長い持続性が重要なのだろう。
しかし、若者の「未来」は、進学や就職など生活の変化により、同じ熱量を維持し続けるとは限らない。だから平和という問いは、人生のなかで、何度出合い直してもいいのだと思う。逆説的ではあるが、それこそが持続性を可能にするだろう。
あえて言えば、私はカフェで恋バナをするように、居酒屋で近況を話すように、平和に思いを寄せる人が気軽に集い、互いにことばを共有できる場=拠点を、平和のまちミュージアムでつくっていきたい。