番外編10「小倉と原爆“if”の歴史 『こくら』の可能性」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2024年8月15日(木)朝刊14面掲載★
「きみはヒロシマで何も見なかった。何も」「わたしはすべてを見た。すべてを」
1959年に公開されたアラン・レネ監督の日仏合作映画「二十四時間の情事(原題ヒロシマ・モナムール)」の一場面である。本作は、原爆投下後の広島を舞台にした、戦争で心に傷を負った日本人男性とフランス人女性の物語だ。
一部を除きほとんどのシーンが、58年当時の広島で撮影されており、多くの市民が撮影に参加した。復興に向けた広島の姿を捉えた貴重な映像資料でもある。
脚本を手掛けたマルグリット・デュラスは、冒頭の会話について、われわれにできることは、ヒロシマについて語ることの不可能性を語ることだけであると言及している。
体験を持たない者が、どれだけ原爆について語ることができるのだろうか。私自身、こうした問いに対峙し、思考が膠着状態に陥ったことがある。そして試行錯誤する中で、ヒロシマ・ナガサキのように8月になると世界規模で継承の儀礼が行われる「大文字の歴史」の影に埋もれた存在に目を向けるようになっていった。
平和のまちミュージアムへの着任とともに北九州へ移住し、もうすぐ2年になるが、小倉は特異な地だと思う。
1945年8月9日、長崎に投下された原爆の第1目標は小倉だった。しかし、前日の八幡大空襲による煙ともやの影響で、目標であった小倉陸軍造兵廠が見えず、長崎へと変更された。
戦後、北九州では「もしも、小倉に原爆が落ちていたら…」ということが、繰り返し語り継がれてきた。直接体験しなかった出来事が、地域の歴史として継承されている例は、あまりないだろう。
私を含め体験のない世代にとって、原爆はもとより戦争も語ること自体が難しい。しかし、地域で語り継がれてきた「小文字の歴史」に目を向け、自分事としての体験を語り継いでいく可能性は残されているのではないだろうか。
現在、ミュージアムでは企画展「八月九日を忘れるな!―小倉と原爆“if(もしも)”の歴史―」を開催している。原爆を自分事として考えざるを得ない街としての「こくら」。この夏、ぜひ体感し、考えてみてほしい。