番外編12「ラシクアレ、学徒ラシク 総力戦下の10代」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2024年11月21日(木)朝刊16面掲載★
平和のまちミュージアムでは現在、企画展「学徒らしくあれ~旧制中等学校の戦争史 門司・小倉編~」を開催している(1月13日まで)。旧門司市および旧小倉市に所在した、旧制中学校、高等女学校、実業学校(現在の高等学校)に通った10代の少年少女たちの生活を紹介するものである。
「学徒らしくあれ」というタイトルは、小倉中学校(現・県立小倉高等学校)第36期生がまとめた「学徒動員」(宅間文雄、1977年)という冊子のなかから引用した。この冊子には、小倉陸軍造兵廠が疎開した大分県中山香町と立石町(ともに現杵築市)において、学徒勤労動員によって兵器工場で働くことになった学徒たちや引率教員による日誌などが収録されている。このうち、後者の日誌に、「ラシクアレ、学徒ラシクアレ」(傍点原文ママ)という一節があるのだ。
前後の文脈からいって、これは兵器工場を管理する軍人側から発せられた言葉であると思われる。彼らは、学徒工員たちに「学徒らしく」あることを求めたのである。
「勤労即教育」のスローガンのもと、学徒たちは、「学徒らしく」あろうとすればするほど、真面目に兵器の生産に取り組む。それが、戦争の遂行へとつながっていく。
国家の人的・物的資源をすべて戦争に注ぎこんでいく「総力戦」のなかでは、すべての人々が「らしく」あることを求められた。昭和の戦争の時代、若い男性は戦場で、それ以外の男性や女性は銃後の社会で、子どもは子どもとして、「らしく」各々の役割を果たしていたのである。
10代の少年少女たちは、徴兵によって若い労働力が不足するなか、兵器の製造現場という銃後の最前線へ駆り出されていった。12時間勤務の昼夜2交代制という厳しい労働条件、不足する食料のなか、それでもなお、「らしく」あることを求められたのであった。
「…らしく」という言葉は、誰しもが使ったり、言われたりしたことのある言葉だろう。今回の企画展では、戦時下における10代の少年少女たちの境遇に思いを馳せつつ、人間の行動規範を拘束する言葉の危うさについても、考えてみてほしいと思う。