番外編17「まち変貌、百貨店も言葉も 小倉陸軍造兵廠」
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2025年5月1日(木)朝刊12面掲載★
平和のまちミュージアムで企画展「まちなかの大兵器工場」が4月19日から始まった。現在の小倉北区の勝山公園とその周辺に存在し、長崎へ投下された原子爆弾の第1目標だった、小倉陸軍造兵廠の歴史をテーマとする企画展である。
今回の企画展では、ただ単に造兵廠の歴史を追うだけではなく、兵器工場と地域の関わりも展示のテーマとした。特に、造兵廠が開設された1933(昭和8)年前後から、まちの様子がいかに変化したのか、という点についての研究成果を展示に反映している。
小倉陸軍造兵廠は、東京の兵器工場を移転するかたちで開設された。それはすなわち、職工とその家族が大量に(少なくとも5千人以上)、小倉を中心とする北九州へ流入してきたことを意味する。
造兵廠開設当時、小倉の中心部で暮らした方は「小倉言葉がもう影をひそめてしまって、東京弁が流行った」「変な言葉だなと、初めはそんなふうに思いよったけれども、だんだん後にはその言葉に我々も引きずられていってしもうた」(米津三郎編「読む絵巻小倉」)と、回想している。まちの雰囲気の変化が、垣間見える。
多くの職工たちを受け入れるには、たくさんの住宅を必要とする。そのため、小倉市郊外の田畑が広がっていた地域で次々と住宅地の造成が行われ、小倉は建築ラッシュの様相を見せる。
1935(同10)年~38(同13)年の間に、井筒屋、かねやす新館、菊屋(後の玉屋)と、次々に近代的なデパートが小倉に建設されたのも、造兵廠がもたらした経済効果の一つといえるだろう。井筒屋開業時のエレベーターガールのほとんどは、東京から移住してきた職工の子女だったという。
造兵廠の存在は、戦前の小倉市歌にも、「日本護る精鋭の 兵器をここに造り出で 勝山城下国防の 第一線に吾立たん 栄誉の都おゝわが小倉」と歌われた。八幡にとっての製鉄所と同じくらい、小倉にとっての造兵廠は大きな存在だったのである。
今回の企画展で、兵器工場を取り巻くまちの歴史について、思索を巡らせてほしいと思う。
