番外編22 最危険だった北九州 空襲対象
連載コラム『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2025年11月20日(木)朝刊16面掲載★
市街地を対象として空襲を行うことで総力戦に参加する国民の戦意を喪失させ、戦争の早期終結を図るという考え方が、第1次世界大戦後の各国に広まっていた、と前回紹介した。当然ながら、日本国内でも大都市を中心に空襲に遭うことが予想され、「防空」の取り組みが行われるようになる。
北九州地域は、早くから空襲を受けると予想されていた。満州事変の2年前の1929(昭和4)年、陸軍と北九州各市等により実施された「北九州防空幹部演習」において、当時の下関要塞司令官が、北九州が空襲の最危険区域であることは、「地図を繙けば一目瞭然」であると訓示した。
人口が集中した工業地帯であり、なおかつ大陸との距離も近い北九州は、実際に空襲を受ける15年も前から、その危険性が指摘されていたのである。
このような危機感を踏まえ、北九州では早くから防空に関する取り組みが始まる。
31年には、日本で4番目の大規模都市防空演習であるといわれる「第一回関門及北九州防空演習」が実施された。翌年からは、市民から募金を集め、敵機を撃ち落とすための高射砲などの兵器を、3年かけて陸軍へ献納する運動が始まる。
防空は国民も参加して実施するものであるという「国民防空」の考え方のもと、その中心的な役割を果たす防護団(のちに警防団)が編成され、その指揮のもと市民は繰り返し防空演習に動員された。
43年に閣議決定された「都市疎開実施要綱」では、三大都市圏と並んで北九州が「疎開区域」に指定され、都市の人口を減らす人員疎開や、防火帯をつくるための建物疎開が実行に移された。その他、北九州ではさまざまな防空に対する施策が実施された。
それにもかかわらず、実際の空襲では約2500の命が失われた。防空の効果が皆無だったとは言わないが、それでも数多くの命が失われることを防げなかったのである。
防空の歴史は、「戦争への備えを備えのままにする努力の大切さ」を示しているのではないかと私は考えている。開催中の企画展「防空先進都市・北九州~空襲に備えたまち~」(2026年1月25日まで)で、あなたなりに、その歴史について思いを巡らせてほしい。
