祖国へ ~引き揚げと復員~
No.84 令和6(2024)年3月15日
昭和の戦争が終わると、中国大陸、東南アジア、太平洋の各地にいた軍人や、そこで暮らしていた人たちの帰国がはじまりました。軍人等の帰国を「復員」、民間人の帰国を「引き揚げ」といいます。終戦時、軍人・軍属および一般居留民を合わせると、約660万人の在外日本人が取り残されており、北九州地域では、門司と戸畑でこれらの人たちに対する援護活動が行われました。
昭和20(1945)年10月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は門司港と博多港を引揚港として指定しました。しかし、関門海峡の掃海作業が未完との事由から、現地占領軍の指令で戸畑港に変更をし、博多引揚援護局戸畑出張所が設置されました。戸畑出張所では引揚船を直接受け入れることはなく、他の地域へ移動する人たちを一時滞在させる中継業務を昭和21(1946)年7月末まで担いました。
また、本州と九州との結節点であった門司は、引揚者らの通過に伴い大混雑しました。そこで、昭和20年12月、福岡上陸地支局門司出張所(翌年、復員庁設置に伴い門司上陸地支局に改称)が設置され、昭和22(1947)年4月末まで復員者支援を中心とする業務を行いました。
伝染病の蔓延を恐れたGHQは、引揚者に対して厳しい検疫を課しました。引揚船が入港するとまず検疫が行われ、異常がないことを確認した後に上陸許可が下ります。上陸した後も、引揚者および携帯品へのDDT(有機塩素系殺虫剤)散布が行われ、検診所でさらに精密な検査が課せられました。厚生省の記録によると、引揚者全体のうち栄養失調、マラリア、結核、脚気などの罹患者が10%にのぼったとされています。
昭和36(1961)年6月27日、最後の集団引き揚げ船「上海丸」が北ベトナムから門司港へ入港しました。それ以降の引き揚げは「個別引き揚げ」と呼ばれ、昭和51(1976)年まで続きました。昭和51年末までに約629万人が帰還しましたが、引揚船内の劣悪な環境やシベリア抑留等で、帰国できないまま亡くなってしまった方や行方が分からなくなった方が24万人以上いると記録されています。
(学芸員M)
【参考文献】
北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政社会、北九州市、1987年
厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』、厚生省、1977年
引揚援護庁編『引揚援護の記録』、引揚援護庁、1950年