若松築港と渋沢栄一
No. 93 令和6(2024)年7月12日
先日、新しい紙幣の発行が始まりました。新1万円札には、40年間使用された福沢諭吉の肖像に代わって、新たに渋沢栄一の肖像が採用されました。
渋沢栄一(1840~1931)は、明治から昭和にかけて活躍した実業家で、「日本資本主義の父」とも呼ばれます。約500の企業、約600の社会事業に関わり、日本の近代化に大きな足跡を残した人物でした。
渋沢は、明治以降の北九州の発展にも大きく貢献しています。明治期には、もともと塩田が広がっていた門司に近代的な港を作るための門司築港会社の大株主となり、門司港の建設を資金面から支えました。また、九州鉄道株式会社(現在のJR鹿児島本線など)、筑豊興業鉄道株式会社(現在のJR筑豊本線など)、小倉鉄道株式会社(現JR日田彦山線)などの鉄道会社にも関与しました。大正期には、東洋製鉄(戸畑)や九州製鋼(八幡)の設立に協力しています。
門司港とならんで、渋沢がその整備に貢献したのが若松港でした。若松は、筑豊興業鉄道の起点としてたくさんの筑豊からの石炭が集まる場所でしたが、当時の洞海湾は浅い海であり、大きな船が入ることができませんでした。そのため、海底に溜まった土砂をさらって(浚渫)、大きな船が入れるような水深にし、あわせて防波堤や石垣などを整備する築港計画が持ち上がります。明治22(1889)年には、若松築港会社(のちの若松築港株式会社、現 若築建設株式会社)が資本金60万円で設立され、翌年には福岡県からの工事許可を得ました。
しかし、会社設立直後の不況により、資金は思うように集まりませんでした。そこで初代社長の石野寛平は、渋沢に助力を求めたのです。渋沢はその求めに応じ、株主に加わるとともに相談役に就任(~明治37年)し、会社の経営を助けました。明治29(1896)年には、北九州随一の実業家である安川敬一郎に対し、若松築港株式会社の会長に就任するよう説得しています。また、明治34(1901)年の八幡での官営製鐵所開業の時期には、安川や井上馨などの有力者と、若松築港事業拡大について何度も話し合いの場をもっていました。
このように、渋沢の力もあり、若松は国内随一の石炭積出港として発展していくことになったのです。
(学芸員O)
【参考文献】
竜門社編『渋沢栄一伝記資料』13巻(渋沢栄一伝記資料刊行会、1957年、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』で閲覧)
北九州市史編さん委員会編『北九州市史』産業経済Ⅰ(北九州市、1991年)
若築建設株式会社編『若築建設百十年史』(若築建設株式会社、2000年)
有馬学編『近代日本の企業家と政治』(吉川弘文館、2009年)
日比野利信「渋沢栄一と北九州~北九州との関わりとは~」(「ぐるリッチ北九州 北九ツウ」、https://www.gururich-kitaq.com/kitaq-tsu/hibino/、2024年7月11日閲覧)