荒波に耐え、無言でたたずむ軍艦防波堤
vol.43 令和4(2022)年11月25日
若松区響町にある防波堤。アジ、イワシ、サバなど多様な魚が狙える人気の釣りスポットとなっていますが、戦争の痕跡を残す貴重な場所でもあります。実は、この防波堤の長さ770mのうち約400mは、駆逐艦「涼月」、「冬月」、「柳」の船体を沈設して作られており、軍艦防波堤と呼ばれています。正式名称を響灘沈艦護岸といいます。
終戦後、日本軍の艦船は連合国に接収されたり解体されたりしましたが、一部は船体そのものが防波堤として利用されました。若松港(現 北九州港)では昭和23(1948)年、駆逐艦3隻の内部に岩石や土砂を詰め込み防波堤の基部として沈め、周囲をコンクリートで覆いました。陸の方から沖に向かって柳、涼月、冬月の順に並んで配置されています。
凉月と冬月は、昭和20(1945)年4月6日、戦艦「大和」の護衛のため沖縄に出撃した駆逐艦であり、奇跡的に沈没することなく終戦を迎えました。柳は大正6(1917)年に建造され、第一次世界大戦の際には同盟国であったイギリスを支援するため地中海へ派遣されました。マルタ島近海において輸送船団の護衛や人命救助などで活躍した後、第二次世界大戦中は佐世保で練習艦として使用されました。
響灘一体が埋め立てられた際に、冬月と涼月はコンクリートで完全に埋没してしまい、現在確認できるものは柳のみとなりました。周囲より1mほど盛り上がっているので、船の形が判別できます。若松港のほかにも秋田港、京都府の竹野港、福島県の小名浜港、東京都・八丈島の神湊港に駆逐艦等が沈められましたが、現在でも船の形が確認できるのは若松のものだけです。
日本で唯一、船の形が確認できる軍艦防波堤「響灘沈艦護岸」。防波堤としての役割は終えたものの、今もなおそこにたたずみ、私たちに語りかけているようです。
(学芸員M)
【参考文献】
松尾敏史著『若松軍艦防波堤物語 戦いの記憶を語り継ぐ』福岡県人権研究所、2013年