長崎原爆被爆者の実物資料
No. 96 令和6(2024)年8月31日
現在、平和のまちミュージアムでは企画展「八月九日を忘れるな!―小倉と原爆“if”の歴史―」を開催しており、その中で被爆当時、長崎医科大学(現 長崎大学)附属医学専門部1年生であった学生・大久保彰さんのことを紹介しています。
同大学は、爆心地から東南東約500mの場所にあり、約850名の方が原爆により亡くなりました。角尾晋学長(当時)は、昭和20年8月7日、東京出張からの帰りに広島市内を歩き、被爆の惨状を目の当たりにしていました。
グビロが丘から見た長崎医科大学(長崎原爆資料館所蔵)
そして翌日、大学にて全学生・教職員に対する訓示の中で広島の被害状況を報告しました。その中で、長崎にも原爆が投下される恐れがあり、警戒するように述べており、同日午後に開かれた緊急教授会において、10日から休講にすることが決定されました。本来なら8月は夏季休暇でしたが、当時は休暇を返上して授業が続けられていたのです。
彰さんの妹・良美さんの手記によると、彰さんは8日の夜、角尾学長から聞いた広島の新型爆弾の恐ろしさを良美さんと母・イツ子さんに話していたそうです。
原爆投下時、専門部1年生は生化学の講義中であり、教室の建物は一部を除いて木造建築であったため、爆発と同時に崩壊し、すぐに火災が発生しました。投下翌日から父・友雄さんは、毎日彰さんを捜しに出かけましたが見つからず、焼け跡を探し歩くこと数日、ようやく被爆当時、解剖学講堂で講義中だったことを知りました。しかし、彰さんは結局見つかりませんでした。その後、昭和21年1月18日に金比羅山頂上の高圧線鉄塔のそばで、彰さんの遺体が発見されました。
企画展では、彰さんが中学2年生から使用していたノートや、被爆時に身に着けていたベルトを展示しています。これらの資料は長崎原爆資料館よりお借りしたもので、当館で見られるのは企画展の期間中(10月6日まで)のみです。ぜひ自身の目でご覧になってみてください。
(学芸員M)
【参考文献】
調来助編『原爆思い出の手記 忘れな草』(旧長崎医科大学原爆犠牲者遺族会、1968年)
長崎原爆資料館による大久保彰さんの御遺族に対する聞き取り資料