門司の空襲と水害 ~6月28・29日~
No. 68 令和5(2023)年6月23日
門司の歴史を振り返ってみると、6月の終わりごろというのは、大きな苦難が降りかかった時期だといえるかもしれません。
一つは、昭和20(1945)年6月29日の門司空襲です。午前0時15分から午前2時ごろまで、B-29約80機が門司・下関上空へ侵入し、焼夷弾を次々に投下しました。この時投下された焼夷弾の重さは、625.9トンに達しました。
この空襲によって、門司港地区は甚大な被害を受けます。人的被害は死者55名、重傷者92名など、建物被害は全焼3,616戸、半焼99戸に上りました。焼失した建物には、門司郵便局や日本銀行門司支店、古城国民学校(現 港が丘小学校)などが含まれています。現在観光地として親しまれている旧門司税関は、空襲によって屋根を失いました。門司港地区の大部分は、空襲によって焼け野原と化したのです。なお、門司港駅の駅舎は、この時奇跡的に被害を免れています。
二つ目の苦難は、空襲から8年後の昭和28(1953)年に訪れます。6月25日から降り続いた雨は、28日にピークを迎えます。同日午前11時から12時までの1時間で、78ミリメートルもの大雨が降りました。
この豪雨のため、河川の氾濫、風師・戸ノ上山系の山々の山腹崩壊などが相次いで起こり、多数の民家を飲み込みました。山腹崩壊は620か所にもおよび、国道3号は土石流で寸断、市街地には50万立方メートルの土砂が堆積し、交通は途絶してしまいました。門司市内では、死者・行方不明者143名、流失家屋69戸、全壊家屋547戸、半壊家屋1,923戸などの被害が出ました。この水害を、北九州大水害と呼びますが、最も被害の大きかった地域が門司だったのです(北九州大水害については、学芸員日記57「天災は忘れた頃にやってくる~昭和28年北九州大水害~」でも紹介しています)。
この6月で、空襲から78年、水害からちょうど70年となります。現在では多くの観光客で賑わう門司のまちですが、このような出来事を乗り越えて、今の姿があるのです。
(学芸員O)
【参考文献】
門司市史編集委員会編『門司市史』第2集(門司市役所、1963年)
奥住喜重・工藤洋三訳・編『米軍資料 北九州の空襲』(北九州の戦争を記録する会、2002年)
北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政社会(北九州市、1987年)