関門海峡を望む防衛の舞台
Vol.45 令和4(2022)年12月9日
小倉北区にある標高76mの手向山頂上には、関門海峡が一望できる展望台があります。眼下に広がるのどかな風景を眺めつつ、戦時中、関門海峡には米軍により機雷が多数投下されたため、引揚げ船が門司港に寄港できなかったことをふと思い出しました。関門海峡は防衛の拠点として、たびたび歴史上の舞台となっており、北九州ではじめて作られた砲台の痕跡が、手向山には今も残っています。
江戸時代、手向山(当時は田向山)は代々小倉藩の家老であった宮本家が、藩主から拝領していた土地でしたが、明治に入ると手向山一帯を陸軍が接収しました。明治20(1887)年、山頂東側に6つの砲座を構築し、各砲座には臼砲二門が備えられました。この砲台からは目標となる関門海峡が見えなかったため、砲台の両端から少し離れた地点に観測所が設置されています。
明治32(1899)年に要塞地帯法が公布・施行されると、下関、門司、小倉および八幡一帯が「下関要塞地帯」に指定され、昭和20(1945)年の終戦まで域内への一般の立ち入りが禁止されました。また、機密保護のために、域内の写真や地図等の発行には要塞司令部許可済の認証を必要としました。(詳しくは、学芸員日記16『下関要塞地帯と絵葉書』をご覧ください。)
昭和に入った後は、小倉陸軍造兵廠を中心とした小倉市街地防空のための高射砲陣地として利用されました。残念ながら、砲座は現存しませんが、倉庫、観測所、探照灯台座、発電所はその形を遺します。
昭和25(1950)年に手向山公園として整備され、現在では散歩やバードウォッチングを楽しむ市民の姿も多く見られます。山頂付近まで車で登ることもできるので、風景に癒されつつ、関門海峡の歴史にも思いを馳せてみてください。
(学芸員M)
【参考文献】
林博史編『地域のなかの軍隊6 九州・沖縄 大陸・南方膨張の拠点』吉川弘文館、2015年
福岡県教育委員会「福岡県の戦争遺跡」福岡県文化財調査報告書274、2020年