高塔山に残る高射砲陣地の痕跡 ~「国土防衛戦士之碑」~
No. 118 令和7(2025)年10月31日

 若戸博のことを紹介した学芸員日記No.117で、高塔山に高射砲陣地があったことに触れました。高塔山には、現在の高塔山広場付近と、仏舎利塔付近の2か所に、高射砲陣地が設置されていたという記録が残っています。今回の学芸員日記では、これについて、さらに深掘りしてみたいと思います。
 日中戦争が始まると、下関に所在した下関重砲兵連隊の一部が、北九州における防空戦闘のための緊急配備につくことになりました。同部隊は、北九州の各地で高射砲や照空灯(サーチライト)を設置するための陣地戦備に取り組みます。この時、高塔山にも陣地が建設され、当初は75mm口径の高射砲2門が設置されました。
 この陣地で、昭和13(1938)年2月13日に、事故が発生します。実弾射撃訓練中に、高射砲が腔発(砲塔内で砲弾が爆発する事故)を起こしたのです。これにより、死者5名を含む、20数名が死傷する惨事となりました。殉職者の葬儀は、下関重砲兵連隊の営庭で行われ、陸軍の西部防衛司令官や下関要塞司令官のほか、松井信助下関市長、在郷軍人や国防婦人会会員など約2,000名が参列しました。
 太平洋戦争が始まったあとの昭和17(1942)年10月(事故から4年半後)、高塔山に「国土防衛戦士之碑」が建立されました。建立したのは、若松市の国防婦人会の女性たちでした。建立の経緯を示す資料は今のところ見つかっていませんが、おそらく、戦意高揚や防空精神の発揚、殉職者の慰霊などの意味合いが込められて、建立されたものと思われます。
 「国土防衛戦士之碑」は、東南院の墓地の最上段に、今もひっそりと建っています。この碑は、高塔山に高射砲陣地が存在したことを示す、数少ない痕跡であるといえるでしょう。
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(学芸員O)
【参考文献】
『大阪朝日新聞』昭和13年2月17日朝刊、北九州版
下関重砲兵聯隊史刊行会編『下関重砲兵聯隊史』(1985年)
前薗廣幸『北九州の戦争遺跡』(2024年)