北九州初空襲拾遺 ~三郎丸国民学校の被災~
No.66 令和5(2023)年5月26日
5月20日(土)より、平和のまちミュージアム開館1周年記念企画展「B-29がやってきた ~北九州初空襲~」が始まりました。B-29による日本への本土初空襲となった、昭和19(1944)年6月16日の空襲について、米国立公文書館や平和のまちミュージアム所蔵の資料をもとに、その経緯と被害などを展示しています。
企画展では出来る限りたくさんの出来事を紹介しようと努めていますが、企画展示室のスペースの関係上、泣く泣く紹介できなかった事柄も少なくありません。今回の学芸員日記では、そういった企画展で紹介できなかったエピソードを紹介したいと思います。
北九州初空襲は、本来八幡製鐵所のコークス炉を第一目標として行われたものでしたが、視界不良で米軍機のほとんどがレーダー爆撃を行ったため、北九州各地に爆弾が落下しました。全くの偶然ではありますが、この爆弾が北九州の国民学校(現在の小学校)数ヶ所に着弾したのです。
被害を受けた国民学校の一つが、小倉市の三郎丸国民学校(現 三郎丸小学校)でした。建物の被害は講堂が小破したのみでしたが、校庭の南東隅に落ちた爆弾が土を巻き上げ、周囲の防空壕に避難していた人々を生き埋めにしてしまいました。これにより、学校の警備に来ていた小倉園芸学校(現 小倉南高校)の教師1名、生徒2名を含む、約20名前後の方が亡くなりました。
この時、救助活動にあたった方(当時小倉園芸学校の生徒)は、次のように回想しています。
我々が駈けつけたのは、三郎丸小学校であった。校庭に爆弾が落ち、二十数名もの人々が生き埋めになっていることを知らされて、一同がく然とした。すでに救助活動は始まっていた。我々も消防団員にまじってシャベルを握ったが、空襲下とあっては、明りをつけることはできない。力まかせにシャベルをふみこむこともできない。どこに人が埋っているか、皆目見当がつかないからである。皆なシャベルをすて、粘土の上を這うようにして、素手で土を掻いた。こうして、何人かの被爆者が運び出されたが、われわれの希望も空しく、すでに絶命していた。
現在、三郎丸小学校の一角には、昭和51(1976)年に建立された「被爆殉難の地」碑が建っており、学校内で多くの人命が失われた事実を伝えています。
(学芸員O)
【参考文献】
『西日本新聞』昭和19年6月18日
『星霜 六十五年史』(福岡県立小倉南高等学校、1971)