北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    戸畑市制100年

    2024/09/13

    No. 97 令和6(2024)年9月13日

    昭和14年ごろの戸畑市役所(『戸畑市史』より、現 北九州市立戸畑図書館)

     大正13(1924)年9月1日、遠賀郡戸畑町が市制を施行し、戸畑市が誕生しました。これにより、門司、小倉、若松、八幡、戸畑すべてが市となり、いわゆる「北九州5市」が出そろうこととなります。今年、令和6(2024)年は、戸畑市の誕生から100周年の節目の年です。
     江戸時代の戸畑は、農民と漁民が混住する農漁村でした。明治に入ってもしばらくその状況は変わらず、明治22(1889)年の町村制施行時の人口は、わずか約1900人だったという記録が残っています。明治32(1899)年には町制を施行しますが、それでもまだ人口約3千人の町でした。この間、石炭関係を中心とする工場や会社が、戸畑に出来始めています。
     町制の施行後、隣町の八幡で官営製鐵所せいてつしょが操業を開始し、明治35(1902)年には九州鉄道(現 JR鹿児島本線)戸畑駅が開業するなど、戸畑の工業都市としての基礎が整えられていきます。明治41(1908)年には、安川やすかわ敬一郎けいいちろう松本まつもと健次郎けんじろう親子により、明治紡績ぼうせき合資ごうし会社が設立され、戸畑工場が牧山に開設されました。同43(1910)年には、戸畑鋳物いもの株式会社(現在の日産自動車のルーツ)が鮎川あゆかわ義介よしすけにより創立、大正期に入ると、旭硝子あさひがらす株式会社牧山工場・同曹達ソーダ工場、明治製糖株式会社戸畑工場などが建設されます。特に、大正6(1917)年に創設された東洋製鉄株式会社(のちに八幡製鐵所へ統合)は、戸畑のさらなる発展を促しました。
     また、明治42(1909)年には安川家により私立明治専門学校(現 九州工業大学)が設立され、戸畑は「学都」としての性格もあわせ持つようになります。
     これにより、戸畑の人口は急激に増加し、大正3(1914)年には約1万人、同7(1918)年には約2万3千人、同9(1920)年には約3万1千人、市制が施行された大正13(1924)年には、約3万9千人を数えました。昭和38(1963)年、北九州市成立直前には約10万8千人にまで達します。
     昭和の時代には、戸畑冷蔵株式会社の設立や共同漁業株式会社(いずれも現 株式会社ニッスイ)の本社移転により、戸畑は遠洋漁業の拠点にもなっていきました。
     ちなみに、戸畑は、明治22(1889)年の町村制施行から5市合併まで、旧5市で唯一、一度も市町村合併を経験しませんでした。そのため、北九州市の行政区が7区になって以降も、区のなかで最小の面積となっています。面積は小さいながらも、前述の通り、いろいろな側面をもって発展してきたといえます。
     戸畑にお住まいの方、この機会に戸畑の歴史を振り返ってみてはいかがでしょうか。

    (学芸員O)

    【参考文献】
    『戸畑市史』(福岡県戸畑市役所、1939年)
    戸畑市役所編『戸畑市史 第二集』(戸畑市役所、1961年)
    北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政社会(北九州市、1987年)

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