北九州市平和のまちミュージアム
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    学芸員日記

    TOTOのレトロな食器

    2024/04/05

    No.86 令和6(2024)年4月5日

     最近少しずつ常設展の資料を入れ替えたり、日記や書籍などは開くページを変えたりしています。新たに展示した資料の中で私のお気に入りは、戦後復興コーナーに配置した東洋陶器製の食器です。昭和30年代後半のものですが、爽やかな色合いで食事が一層引き立ちそうです。
     東洋陶器(現 TOTO)は、日本陶器(現 ノリタケカンパニーリミテド)の初代社長であった大倉和親が、大正6(1917)年5月に陶磁器製造販売を目的として設立した会社です。筑豊炭田が近く石炭を調達しやすいこと、朝鮮半島や対馬など原料の産地が近いこと、中国大陸や東南アジアへの輸出を門司港から行えることなどの理由で、小倉(当時は企救きくぐん板櫃村いたびつむら)に工場が建設されました。

    昭和初期の東洋陶器事務所と工場
    (出典:北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』産業経済Ⅱ、北九州市、1992年)

     この頃、国内ではトイレ等の衛生陶器が浸透していなかったため、衛生に対する知識の普及が必須でした。そのため、製造・販売の主力は食器部門で、とりわけコーヒー碗皿は海外需要の高まりを受け注文が殺到し、大正8(1919)年春の輸出は未曽有の活況を呈します。しかし、翌年の恐慌で主な輸出先であったアメリカが、輸入制限・関税引き上げをするという噂が流れたことで、東洋陶器はアメリカ市場から撤退、経営は苦境に陥りました。
     その後、大正12(1923)年に関東大震災が発生し、震災後、鉄骨鉄筋コンクリートビルの建設が相次ぎ、衛生陶器の需要が急増します。このとき、衛生陶器以上に売り上げを伸ばしたのが、もともとの主力商品であった食器部門でした。これまで国内向けには番茶セットだけを生産していましたが、硬質磁器による和食器の開発に成功したことから、昭和3(1928)年から本格的に販売を開始します。斬新な絵柄やスタイルを取り入れたディナーセット風の和食器が販売され、人気を博しました。当時、南満州鉄道株式会社の豪華列車である特急あじあ号でも、東洋陶器製品の食器が使用されていました。
     太平洋戦争がはじまると計画生産や企業整備のため、昭和18(1943)年には磁食器と陶食器の生産を中止し、航空機用点火栓がい碍管がいかん(電線を中に通す絶縁用の管)など軍需品の生産へと転換を図ります。また、出征した工場従業員の生産力を補うため、小倉中学校(現 小倉高校)や鎮西ちんぜい高等女学校(現 敬愛高校)から動員された学徒らも工場内で軍需品の生産に携わっていました。昭和20(1945)年には、九州軍需管理部から「福第6221工場」という秘匿名を使用することが強いられ、東洋陶器の社員は社章ではなく、「柏報国隊」の記章を着用しました。
     戦後、衛生陶器需要の高まりとともに、食器製造は昭和45(1970)年に停止されます。そして同年、社名を「東陶機器」に変更、平成19(2007)年には従来からブランドとして用いてきた「TOTO」を正式社名に採用しました。
     今では、トイレをはじめ水回り製品のイメージが強いTOTOですが、過去には食器も製造し、国内外で評価を得ていました。ぜひ、実物を平和のまちミュージアムでご覧になってください。

    (学芸員M)

    【参考文献】
    北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』産業経済Ⅰ、北九州市、1991年
    TOTO百年史(https://jp.toto.com/history/100yearshistory/digitalbook/、2024年3月6日閲覧)

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