北九州五市の建物疎開
No. 62 令和5(2023)年4月14日
小倉中心部の空中写真(昭和23年、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)。
地図中の赤丸内が建物疎開跡。現在この区域には、平和通り、浅香通り、小文字通りなどの道路が存在する
太平洋戦争の時代、戦況が悪化してくると、空襲の被害を最小限にとどめるため、都市の疎開が進められました。疎開には、建物疎開、人員疎開、施設疎開などの種類がありましたが、このうち北九州のまちの様子に大きな影響を与えたのが、建物疎開です。建物疎開の目的は、空襲による火事の延焼を防ぐための防火帯をつくることでした。
昭和18(1943)年12月、閣議で「都市疎開実施要綱」が決定されます。北九州五市は、これにより防空指定都市(全国で4地域、12都市)に指定され、建物疎開の計画が策定されました。昭和19(1944)年2月26日には、北九州五市の第一次疎開地域が指定され、これ以降終戦までに4回の建物疎開が実施されました。5回目の疎開も計画されましたが、戦争の終結により実施されませんでした。
門司市では、老松町7,350坪、庄司町3,150坪、門司駅前7,270坪などが疎開空地に指定され、8,318世帯が建物疎開により移転しました。これにより疎開した人数は、24,082人に上ります。
小倉市では、小倉陸軍造兵廠西側一帯や現在の平和通り周辺などが疎開空地に指定され、約7900戸(約8700戸という説もあり)が疎開しました。昭和17(1942)年に約22万人いた小倉市の人口は、昭和20年には約13万人となっています。
若松市においては、市の中央部(現在の若戸大橋若松側取り付け道路附近)などが疎開空地に指定され、計2,632戸が疎開しました。
八幡市では、1万412戸、疎開人口(推定)5万6551人にも及ぶ建物疎開が行われ、約28万人いた人口は、約15万人まで減少しました。
戸畑市においては、戸畑駅北側や浅生通り付近などで建物疎開が行われ、約3000戸が疎開しました。戸畑市の人口は、昭和19年から20年の1年間に約3万人減少しています。
戦後、建物疎開跡地は大規模な開発が行われ、平和通りなど、幅の広い街路が建設されました。現在の整備された街並みの陰には、戦争で住み慣れた家を出て行かざるを得なかった人々がいたのです。
(学芸員O)
【主要参考文献】
北九州市史編さん委員会編『北九州市史 近代・現代』行政社会、(北九州市、1987年)
梶原康久「軍都・小倉市の建物疎開」(『福岡地方史研究』59、2021年)