北九州市平和のまちミュージアム
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学芸員日記

番外編31 門司港から出征した軍馬 片道切符

2026/09/25

連載コラム 『想い つなぐ』

★西日本新聞 北九州・京築版 2026年2月19日(木)朝刊18面掲載★

 日中戦争から太平洋戦争にかけて戦場へ向かった動物は、人間だけではなかった。その代表的な動物が、ウマ、すなわち「軍馬」である。
 単に軍馬といっても、その役割はさまざまである。日本陸軍の場合、軍馬には、将校の乗用と偵察、伝令、または戦闘に携わる「乗馬」、荷車を引っ張る「輓馬ばんば」、背中に荷物を載せる「駄馬」という分類が存在した。
 第1次世界大戦以降、戦争の機械化に伴って、軍馬の役割は変化し、特に乗馬は重視されなくなった。しかしながら、日本軍では、荷物を運搬する輓馬や駄馬としての役割は自動車にあまり代替されず、戦争の終結を迎えることになる。
 そのため、戦時期には非常に多くの軍馬が動員され、中国や南方の戦地に向かっていった。1937(昭和12)年から45年までに動員された軍馬は、50~60万頭にのぼると推定されている。
 陸軍の各部隊は、平時から「部隊保管馬」と呼ばれる軍馬を育成していたが、当然ながら、それだけでは戦時における所要数を満たすことはできない。そのため、農家などで飼育されていた民間の馬が、「青紙」とも呼ばれた馬匹ばひつ徴発告知書により徴発された。
 これらの軍馬は、鉄道等により輸送され、戦地へ向かう船が出る港へ集結する。そういった港の一つが、門司港だった。軍馬たちは、出発まで門司港の埠頭ふとうにつながれ、クレーンで船に乗せられ、戦場へ向かった。
 一度戦場へ向かった馬は、再び日本の土を踏むことはほとんど無かった。戦争による傷で命を落とす馬が多数いたのはもちろん、終戦まで生き延びた馬も、現地の住民に売り渡されるなど、戦地で「処分」された。門司港からの船出は、馬たちにとって片道切符になったのである。
 現在でも門司港には、出征前の軍馬が水を飲んだ水飲み場や、軍馬の霊を弔う軍馬塚といった、軍馬と門司港とのつながりを示す痕跡が残されている。
 おびただしい数の人間が戦争の犠牲となったのと同時に、人間の都合で戦争の犠牲になった生き物たちもいる。その一つ一つの命に、想像力を働かせていきたいものである。

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