小倉から被爆直後の広島へ ~小倉陸軍病院派遣防空衛生隊~

『元小倉陸軍病院派遣広島原爆防空衛生隊の記』
現在開催中の企画展「兵隊さんのまち ~北方兵営とその周辺~」(8月30日まで)では、北方兵営のそばに存在した小倉陸軍病院(現 国立病院機構小倉医療センター)についても、展示を行っています。今回の学芸員日記では、それらの展示に入りきらなかったことについて、ご紹介したいと思います。
門司港から上陸してきた傷病兵を真っ先に受け入れて治療を施し、他の陸軍病院へ転院させるという役割を担っていた小倉陸軍病院は、最大病棟数44、日中戦争ぼっ発後から太平洋戦争終結までの総入院患者が約21万人にも上る、国内屈指の陸軍病院でした。病院には教育隊がおかれ、軍隊のなかで救護や医療にあたる衛生兵の教育も担っていました。
昭和20(1945)年8月7日深夜、その小倉陸軍病院に、「新型爆弾」が投下された広島へ救護隊を派遣するよう命令が下ります。病院では早速約140名からなる「防空衛生隊」が編成され、翌8日早朝5時に病院を出発、小倉駅から鉄道で広島へ向かいました。なかには、小倉と同じく大規模な陸軍病院があり、多くの医療従事者がいた広島への派遣要請があったことに、違和感を覚えていた方もいたようです。広島では、原子爆弾の被害により、広島第一・第二陸軍病院がともに壊滅状態となっていたのでした。
衛生隊員一行は、広島駅の一つ手前の横川駅で下車し、遺体があちこちに転がるなかを広島駅まで線路上を歩いて移動しました。途中、川を渡る鉄橋で反対側からやってくる列車に遭遇、列車を川の手前で停車させ、鉄橋を徒歩で渡っています。広島駅近くの第二総軍司令部では、広島陸軍病院が救護所を開設していた戸坂国民学校(現 広島市立戸坂小学校)へ行くよう命ぜられ、さらに徒歩で移動、到着後は広島陸軍病院の指揮下に入り、同地を拠点に9日から本格的に被爆者の救護活動を開始しました。
事前に伝えられていた情報が不足していたこともあり、小倉から持参した医薬品の数が不足、大至急小倉陸軍病院に支援を頼むという事態も起こるなか、隊員たちは懸命に治療に当たりました。途中15日に玉音放送によるポツダム宣言受諾の知らせを受けても治療を継続、最終的に約2週間程度活動を行い、24日から26日にかけて小倉陸軍病院へ復帰します。帰着後の隊員たちのなかには、倦怠感を感じたり、頭髪が抜けたりするという、いわゆる入市被爆による原爆症の症状を訴えた方もいました。
隊員たちの一部は、原爆投下から50年近くが経った1994年に、『元小倉陸軍病院派遣広島原爆防空衛生隊の記』をまとめました。今回の学芸員日記の大部分は、この回想録の記述によっています。
小倉陸軍病院派遣防空衛生隊は、広島への原子爆弾投下と北九州とのつながりを示す、これまであまり知られていない歴史的事実の一つと言えるでしょう。
(学芸員O)
【参考文献】
小倉陸軍病院戦友会編『小倉陸軍病院の思い出』(小倉陸軍病院の思い出編集委員会、1975年)
元小倉陸軍病院派遣広島原爆防空衛生隊編『元小倉陸軍病院広島原爆防空衛生隊の記』(1994年)