北九州市立大学に思わぬ遺物!? ~工兵第12大隊跡~
No. 126 令和8(2026)年6月19日

明治29(1896)年に建設が始まった北方兵営の西側には、工兵第12大隊が置かれました。工兵とは、自軍の陣地の構築や敵陣地の破壊、移動のための道路・橋梁等の建設、爆破工作等を担う兵種でした。先日紹介した輜重兵第12大隊や歩兵第47連隊は、旧秋月街道の東側に置かれましたが、工兵第12大隊は唯一、秋月街道の西側に設置されました。
工兵第12大隊は、陸軍の軍備縮小により、大正14(1925)年に廃止されます。その後、大隊跡地は兵器庫等として利用されました。終戦時は、城野駅北にあった小倉陸軍兵器補給廠が管理していたようです。また、工兵隊跡の一角には、陸軍将校の社交クラブである「偕行社」が建築されました。
戦後、占領軍が進駐し北方兵営跡などが接収されると、英語をはじめとする外国語教育の需要が高まりました。そのようななか、小倉郷土会の中心人物だった曽田共助や、戦後初の公選小倉市長となる濱田良祐らが中心となり、外国語専門学校の創設計画が立案されました。この案は、市議会や文部省の認めるところとなり、昭和21(1946)年10月に、外国語教育を通じて平和国家建設を担う人材を育成する「小倉外事専門学校」が仮校舎で開校しました。
小倉外事専門学校の校地は、当初北方の野戦重砲兵第5連隊跡(現在の企救中学校付近)などが候補として挙げられていましたが、占領軍の意向もあり、工兵第12大隊跡を使用することとなりました。翌年4月から学校は工兵隊跡に移転、元兵舎だった建物を使って、授業が始まりました。明治時代に建築された校舎は非常にボロボロで、雨の日は校舎内で傘をさして移動しなければならないような状態だったそうです。
小倉外事専門学校は、昭和25(1950)年には新制大学へ昇格して北九州外国語大学となり、さらに同28(1953)年に商学部が増設され、北九州大学となりました。北九州大学となった翌年には、旧偕行社の建物が接収を解除され、以降昭和50年代後半に取り壊されるまで大学本部の建物等として使われました。北九州大学は平成13(2001)年に北九州市立大学に改称、現在工兵第12大隊跡は同大学の北方キャンパスとなっています。

旧工兵第12大隊のものを流用した可能性が高い
現在北方キャンパス内の一角には、工兵第12大隊跡を示す石碑と、兵役の満期を記念して建立された石碑が残っています(こちらについては、北九州市立大学経済学部の土井徹平准教授にご教示いただきました)。また、北方・北九州市立大学前バス停付近には、鉱滓煉瓦を使用した塀の一部が、わずかではありますが残っています。
さらに、同キャンパスの西門の門柱は、上部に設置された装飾を除いて、冒頭に掲げた工兵第12大隊営門の門柱とデザインが酷似しています。材質も同一であり、石の積み方等も全く同じです。西門の門柱がずっとこの位置にあったのかどうかは不明ですが、工兵第12大隊のものを流用したものであることは間違いないと見てよいでしょう。
これらの遺物は、北九州市立大学北方キャンパスの場所が旧陸軍の兵営だったということを、雄弁に物語っています。
(学芸員O)
【参考文献】
北九州市立文書館所蔵「濱田文書」
北九州大学編『北九州大学五十年史』(北九州大学、1998)