番外編29 別離繰り返された北方 面会
連載コラム 『想い つなぐ』
★西日本新聞 北九州・京築版 2026年5月21日(木)朝刊16面掲載★
兵役を国民の義務とした大日本帝国憲法に基づいて徴兵された兵士たちは、外界から隔絶された兵営内での生活を強いられた。
明治から終戦までの約50年間兵営が置かれた現在の小倉南区北方でも、徴兵により、あるいは召集令状によって多数の兵士が入営し、生活を送った。彼らのほとんどは、故郷に家族を残していた。
兵営設置によって商店街が形成された北方には、たくさんの旅館が立ち並んでいた。これらは、面会のために訪れた兵士の家族や知人、あるいは入退営前後の兵士を主な顧客としたものであった。1929(昭和4)年時点の北方周辺の商店地図をみると、少なくとも7軒の旅館が営業していたことが確認できる。
日中戦争が始まると、さらに多くの兵士が北方へと集まり、それにつれて面会客も増えていく。小倉市街地と北方を結んだ小倉電気軌道(のちの西鉄北方線)の乗客数は激増、まちは非常なにぎわいを見せた。
企画展「兵隊さんのまち~北方兵営とその周辺~」(8月30日まで)では、小倉に住んでいたある男性の日記を展示している。彼の息子山城弘氏は、39年3月に歩兵第14連隊留守隊に入隊、中国の戦地へ向かうまでの約2か月を北方兵営で暮らした。
男性は、この間4回ほど面会のために北方兵営を訪れている。最後の面会となったのは、部隊の出発前日である39年5月5日だった。親子が会話を交わすまとまった時間がとれたのは、この日が最後だったであろう。同日の日記には、「明日出発の為め面会人雑沓す」と、面会者で賑わう北方の様子が描かれている。
弘氏は翌年11月、腹部に銃創を受け戦死した。その約半年後、男性も息子の後を追うように亡くなっている。北方が、親子の今生の別れの地となったのである。
漫画家やなせたかしさんも、戦死した弟と最後に会ったのは、召集されたやなせさんが北方で生活を送っていた時だった。家族や親しい知人との最後の思い出が北方兵営に関わるものだったという人は、かなりの数に上ったと思われる。一体どれほどの別れが、北方の地で繰り返されたのだろうか。想像していただきたい。
